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伝統空手②

伝統空手

自分が通っていた道場では、実力ナンバーワンと言われていた先輩の敗北は自分を含め、その場にいた全ての門下生にとってショックだった。それより、もっとショックだったのは当の敗退した先輩だったのだが…。
「やはり、自由組手の経験が圧倒的に違うな。これは稽古法そのものを見直さないと、どうにもならない」とその先輩は言った。そこでどうしたかというと、圧倒的な強さをみせた相手選手の大学空手部に出稽古に行こうということになったのである。その大学は空手部のみならず、他の武道もスポーツも全般的に強いとの定評があり、全国的にも好成績を誇る大学であった。その空手部の稽古に参加させてもらい、その稽古法を自分たちの稽古に導入しようと思ったのだ。

伝統空手

大学の構内に入り、空手部の道場に赴くと、そこでは迫力ある稽古が行われた。当時、自分たちの道場では例えば、その場突きの稽古は左右の合計が五十回程度。受けも蹴りもだいたい、それぐらいの内容だった。ところがその大学の空手部では、それを延々と続けるのである。しかも、気迫と気合が違う。以前も書いたように、何十年も前の武道の稽古の場である。特に大学の部活は四年生は神様で一年生は奴隷扱い。稽古についていけない一年生たちは、先輩たちから容赦ない竹刀の嵐を浴びせられていた。全国で実績を挙げているだけに、稽古量も半端ないのである。
自分も先輩二人もその迫力にただただ、圧倒されるばかりだった。やがて、稽古は移動稽古から組手に移った。ここでは、約束一本組手もなく、いきなり自由組手である。そこでこう、誘われたのだ。「良かったら、一緒にやりませんか?」と。
精悍な面構えをしたその男の態度は自信にあふれていた。町道場の空手が自分たちの空手にどれだけ通用する?と言いたげな気配が言葉からも感じられた。こうなったら、引くに引けない。
そして、こういう場合、一番手に行くのは後輩である自分である。緊張の面持ちで道場中央に向かい合った相手は茶帯の男だった。「始め!」の声と同時に、その男は連続の突き技を放ってきた。しかも、顔面に対してである。寸止めではなく、明らかに当てるつもりで攻撃してきたのだ。その勢いに押されて、自分は道場の隅まで追いやられた。「ここで止めてもらえる」と気を抜いた瞬間である。相手の前蹴りがまともに腹に突き刺さって、倒された。フッと気持ちを抜いた時にくらう攻撃は効く。蹴りの衝撃が腹部全体にきて、悶絶の苦しみを味わわされた。
その時だ。「何をやっとるか!」という怒号が聞こえたのは。それは自分の醜態を見ていた先輩の声だった。叱咤激励というより、不甲斐ない自分への怒りの声だったのである。何とかダメージが去ったところで、組手再開。「組し易し」と見たのであろう。相手は先ほどよりも猛烈な攻撃を仕掛けてきた。それに対して、自分は成すすべなく下がる一方。こうなったら、組手というより、サンドバッグ状態である。そんな自分の有様を見ていた先輩から「止め!」をかけられた。そして、「ちょっと、こっちに来い」と言われ、前に立った途端に強烈なビンタを浴びせられた。そして、こう言われたのだ。
「おまえ、それでも空手家の端くれか!少しは気概を見せてみろ!」と。
その言葉で気持ちが変わった。スイッチが入ったのである。そして、改めて道場中央で向かい合う。今度は相手がどう仕掛けてこようが、相打ち覚悟で戦うつもりだった。肚が座ったのである。「始め!」の号令と同時に相手が前蹴りから同じように左右の連打を放ってくる。それをお構い無しに反撃した。一発くらったら、倍で返してやるぐらいの気持ちで打撃の応酬をした。武道・格闘技の鉄則だが、相手の攻撃にひびって、下がったらそれだけで負けである。下がらずに前に出る、あるいは相手のサイドに回り込む。そうでなければ、実攻防では勝てない。その組手は何分やったか分からない。頭が真空状態になって、打たれようが蹴られようがこちらも必死に応酬した。そのうち、攻め疲れをした相手が徐々に下がり始めたところを狙って、右の逆突きで顔面を打った。これが見事に決まって、相手はダウン。組手が終わった時は意識朦朧となって、その場にへたり込みそうなぐらいに疲れ果てた。
そして、つくづく思ったものだ。「必死の打撃戦はこうも消耗するものか」と。話は少し変わるがこの当時、劇画の「空手バカ一代」が一世風靡をしていた。そこには直接打撃性の空手、今で言うフルコンタクト空手の実戦性が華々しく描かれ、寸止めの空手があたかも揶揄されるかのごとく表現されていたのである。しかし、寸止めと言われる伝統派の空手も道場によっては、直接打撃の組手が行われていたのだ。それも顔面ありという過激な内容で。

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また、話は変わる。自分の必死の組手を見た先輩二人も気構えをもって組手に臨んだ。そして、自分と同じように一歩も下がることなく、相手と打ち合った。白い道着がたちまち、血まみれになった。終わった時はやはり、自分と同じように精も根もつき果てたという状態で戻ってきた。そこでつくづく三人共思ったのである。実際に打ち合う稽古をしている者とそうでない者とは雲泥の差があることを。約束組手をどれだけ繰り返しても、実際の攻防では相手がどう仕掛けてくるか分からない。巻き藁打ちでどれだけ拳を鍛えようが、当たらなければ意味がない。それを痛感させられた。さらにその大学の空手部員たちはいずれも突きのスピードが半端なく速かった。フェイントも巧い。自分たちのように腰だめの状態から打つのではなく、胸の前あたりで両手を構えて打ってくるのである。そして、自分たちが一発狙いで攻撃するのに対して、左右連打で打ってくるのだ。練習量の差があるだけでなく、稽古法に圧倒的な違いがあることを思い知らされた自分たちは部員の一人に訊ねた。「どんな稽古をしているんですか?」と。
すると、その部員は道場のロッカーを指して、こう言った。「あれですよ」と。そこにはボクシング用のグローブがいくつか置かれていたのである。そしてこう続けた。
「我々の試合ではスピードが重視されるんです。なので、ボクシング部の選手のテクニックも取り入れて稽古をしています」。彼らの突きの速さはそれなのかと納得させられたものだ。今なら、「空手の突きの意味を十分に理解したうえで、ボクシングのパンチテクニックを取り入れているのか」と訊ねることだろう。しかし、当時はその言葉に考えさせられたのだ。ならば、自分たちもボクシングの練習を導入すべきではないかと。幸いなことに、道場にはボクシングを学んでいたという外国人もいた。ならば、彼にその技術を教えてもらおうということになったのだ。単純な発想だが、強くなりたいの一心の自分たちにとって、そうなれるものなら、どんな稽古法も取り入れようと思っていたのである。

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ここで話はまた、変わる。自由組手の重要性を痛感した自分たちは以来、様々な流派の空手家たちと合同稽古をした。そこで記憶に残る、こんなことがあった。ある流派の空手家と組手をした時のことである。この男も突きが速かった。まさに電光石火のスピードである。だがしかし、裂帛の気合と共に飛んでくるその突きは当たる寸前で同様に迅速なスピードで引かれた。自分たちがやっていたように、突き込まないのである。だから、速さはあっても、それほどの威力は感じなかった。空手は型でも試割りでも突きは引かない。引くのは突き手の逆手だけだ。その理由を訊ねると、「試合では引き手を速くしないと、一本が取れない」という答が返ってきた。興味をもって、その空手家の試合も観戦に行ったが、やはり、彼の言うとおり、出場する選手は全てが突きも蹴りも速く引いていた。流派によって、空手はこうも違うものかと改めて思ったことを覚えている。

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