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合気の章⑩

氣空術の稽古中にほんのわずかな力で相手が崩れる、倒れる状態を体験したある門下が思わず、こんなことをつぶやいたことがある。「こんなので技がかかるなんて…」と。
そうなのだ、自分でも信じられないぐらいの力でかかる。彼は続いて、こうも言った。「でも、力を入れないと、不安だもんなぁ」と。
まったくもって同感である。武道や武術をやってきた者でなくとも、人を何とかしようとする場合は「力を入れる」という意識がそれこそ潜在意識にまで刷り込まれている。だから、会長にいくら「力はいらない」と言われても、それこそ無意識のうちに力を使って(入れて)しまうのだ。

話は戻って、氣空術の合気技。二方向にしろ、二触法にしろ、使うのは微妙なまでの力と動き、そして正確な方向をとらえることが要求される。
入門した初めの頃は相手の技に「かけられてなるものか」と全力で抵抗していた。それまで、「倒されない」、「当てられない」、「崩されない」をやってきた人間である。ましてや、武術の世界。そうは簡単に投げられてたまるかと「かからない状態」を作っていた。

しかし、それをやっていると、圧や結びなどの精妙な感覚がつかめない。相手だけでなく、自分もである。すると、膠着状態のまま、「できないねぇ」ということになる。それでも会長に手をかけられると、アッという間に倒されるか、崩される。その感じを思い出しながらやると、偶然にも技がかかることがある。それはもう、すんなりとかかるのだ。

しかし、打撃系武道・格闘技のような手応えがまるでない。できたという実感がないから、会得が難しいのだ。
稽古の度にそれを痛感するにつれ、「かかるまいとして、力任せで対応するのは間違いではないか」と。力任せはつまり、力を入れている状態である。
氣空術は基本も二方向も二触法も皮膚接触も、感覚で得られることが大きい。
稽古を重ねるうちに「相手の技に対抗しようというのではなく、感じることが技の会得につながるのでは」と思うようになった。
自分の腕の重さをどう伝えるか、微細なまでの皮膚接触をどう感じるか。その全てが心と身体でとらえていく感覚稽古ではないか。
そう思うようになって以来、相手の技に対抗するのではなく、「ナチュラルな状態」で受けるようにした。

会長の指導を受け、相手とかかり稽古をする時は相手の動きを感じる。最初はなかなかつかめない。「力でやっているから、出来ない」までは分かるものの、何がどう間違っているかまでは分からないのだ。
だから、ここで相手の動きを感じる。
会長が説明した通りの正しい動きになっているかどうか、不自然なずれ・ぶれはないか。相手が力の入らない、自然な身体の動かし方をしているかどうかを感知する。これを続けるうちに「感じる」ようになるのだ。
相手の動きが分かるようになり、それを正しく伝えられるようになれば、その動きは自分もできるようになる。氣空術を学ぶ門下なら理解していると思うが、氣空術はこの「感覚で得る動き」が数多い。考えるのではなく、感じる。それによって、技の感度や感覚を心と身体で練り上げていくのだ。

したがって、稽古では自分がやっていたような「かかるものか」は違うのだ。
初めのうちは、お互いに感知して確かめ合いながらの稽古が「力は入れずに出す」を知ることにつながっていくと思う。むろん、「相手に合わせてかかってあげる」は間違い。それでは、技の習得にならない。
稽古の雰囲気を楽しむのはいい。しかし、楽しむあまり、わざわざ、相手に同調して「かかってあげる状態」にするのは単なるラポールだ。これでは相手ばかりか、自分の稽古にもならない。実際、自分自身もその暗示的な状態になったことがある。お互いに技が決まり、楽しくなる。
ところが、稽古をしているうちに、ふと、違和感を覚えた。「これは本当にかかっているのだろうか」と。
そこで、意識のスイッチを切り替えたのだ。すると、一切、相手の技にかからなくなった。自分は他の合気系の武術については知らないが、このラポールが一番、厄介である。稽古相手に同調するあまり、一種、暗示的なものになる危険性がある。それでは、武術の稽古にならないのだ。打撃系の武道・格闘技でも相手の打撃を巧みに引き出すために、あえて柔らかく受けるなら、対するなりすることがあるが、これはラポールにはならない。あくまでも、自分と相手の技量の向上のためにそれをする。このあたり、合気(ここで使っている合気は、合気道とは違う)の稽古にあたっては、意識的に暗示のようなものにはならないようにすることも大切だと個人的に思っている。

いずれにしても、技(動き)がある程度のレベルできるようになれば、相手が力任せで対応しようがそれなりに投げ、崩すがことができる。できるようになったら、より感覚の精度を高めていく。ただし、辛口のことを言わせてもらうと、稽古で出来たからといって、それは「会得」には到底及ばない。それは打撃系の武道・格闘技の技でも同じことである。脛を部位鍛錬で鍛え、ローキックでバットをへし折れるからといって、それが実攻防で威力を発揮できるかというと、そうは簡単にいくものではない。それができるようになるための、ライトコンタクトの組手やスパーが必要になってくる。いずれにせよ、どんな場面でも「使える技」とするからにはやはり、修練を積む以外にない。何度も繰り返すようだが、武道・武術の技、インスタントでできるようなものは何一つとしてない。地道な繰り返しの中から体得していくしかないと思う。

話は少し変わるが、氣空術を学びにはるばるオーストラリアから本部道場を訊ねてきた外国人がいる。ある著名なフルコンタクト空手の本部道場で五年間学び、そこで黒帯を取得。その後、一九七八年に「さばき空手」で有名な空手家の本部道場に入門する。創始者の直接指導を受けながら十七年間にわたって修行する。段位はなんと四段!以降、その弟子の一人が独立して開いた空手道場で十二年間修行したそうだ。
しかし、稽古を続けるうちに「武道はパンチとキックだけではない」と思うようになり、空手の修行と並行して合気道の道場にも入門した。その道では著名な師のもとで十五年間学んだ彼はここで二段を取得。現在、オーストラリアで自分の道場を持ち、空手と合気道を教えているとのことだった。

そんな彼を見ていて、「さすがだな」と思ったことがある。自分にかけられる技の感覚を身体で味わうかのように受けているのだ。
通常、氣空術の技をかけられると、なにがなんだか分からないうちに投げられる。ただ、その状態が分からないから、自分も同じようにできない。そこで悪戦苦闘するのだが、彼は「身体にどのような技がかかっているか」の感覚をつかもうとしていた。

本部でのその二日間の稽古には、自分も参加したのだが、なんと、この自分彼の稽古相手に指名されたのである。氣空術の基本もおぼつかない自分である。断りたかったが、会長の指名だからそれはできない。なおかつ、実際に彼と向かい合うと、身長こそ低いものの、全体的にがっしりしていて、身体の軸や重心の重さは半端じゃなかった。そんな彼に自分が基本的な二方向なり、重みは下などの技をかける。すると、かかるのだ。ここでも彼は自分に「かけられる技を心と身体」で感じるかのように吸収しようとしていた。初めての稽古体験であるにもかかわらず、それをできるのは相当に武道をやり込んできた人の感覚である。「体得する・身につけるコツ」を自然につかもうとする下地があるのだろう。

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