「強さ」を追い求めていた高萩の武道人生。しかし、やはり誰もが同じ道を通るように、彼も年齢とともにパワー、スピードの衰えを感じざるを得なかった。
そんな高萩をさらに悲劇が襲う。顔面麻痺、味覚障害、寝ているだけでも目眩がする。その症状は次第に酷くなり、医師の診断を仰いだ。その結果は、ラムゼンハントシンドロームという難病であった。当時の彼は、子どもが産まれたばかりであったし、マンションも購入していた。「現代医療でも治療難易度が高い」と医師にも言われ、絶望感に見舞われる。医師の治療を受けても治らない。薬を飲んでも改善しない。さまざまな代替医療も試みたがそれも駄目。「俺は一体、どうすればいいんだろう」―悩み、煩悶する高萩だったが、ある日、女子サッカーの澤穂希のブログを読んだ。そこには自分と同じような病気に罹り、懸命に治療する彼女の記事があった。
その文面を読んだ高萩は「これだ!」と思ったと言う。目眩の世界から脱却するには、あえて動いて特殊な平衡感覚に脳を慣れさせればいいのではないか!ちょうど、高萩の住むマンションのトレーニングルームに、同時多方向に負荷を与える筋力トレーニングマシーンがあった。これに乗ることで、目眩に対して脳を強制的に慣らそうと決意した。その成果は奇跡的に高萩の症状を軽減していったのである。同時にこんなことも考えた。
「武道の受け身を徹底的にやれば、さらにこの症状は改善されるんじゃないかと。そこで以前から興味を持っていた、合気系柔術に目が向いたんです」
以来、高萩はさまざまな合気系柔術のセミナーに参加する。このほぼ同時期、友人が合気道を始めたことや他の合気系柔術を学んでいる知人もいたため、高萩の合気に対する関心はさらに高まった。
「動画で合気道養神館の塩田剛三先生の演武を観て、柔らかい身体の円の動きに興味がわいたんです。それまでやっていた自分の武術は、最短で急所を攻撃するというものだったから、それとは正反対の動きだと。ある意味、感動しました」
思い立ったら、行動は早い。高萩はとある合気系柔術の道場に入門する。筋力のみに頼らぬ合気の世界。高萩が求めたのはそれだった。
当時を振り返って、彼はこう語る。
「面白かったですよ。その道場ではいろいろな学びがありました。しかし…自分には一切の合気技がかからなかったんです。稽古だから、投げられなければならない。でも、それはあえてかかっている状態。投げられながら『これは使えるんだろうか』と、いつも疑問を抱いていました」
しかし、高萩は合気への関心を捨て切れなかった。道場に通いながらも、さまざまな合気系柔術のセミナーにも参加した。たとえば腸腰筋を使った発力法や関節技的なもの、さらには脱力による技法など…。あらゆる合気系柔術の技を実体験するものの、それでも高萩には合気の技がかからない。その頃の思いを高萩はこう振り返る。
「合気はどこかにある。あって欲しいとの一念で探し求めた合気の世界。でも、どの合気技も自分にはかからない。後半はさすがに疑いの気持ちがわいてきました」
そんな折も折、氣空術・東京講習会が行われることを知る。「ここで駄目だったら、もう、合気は諦めよう」高萩はそう思いながら、関東式合気の研修会で知り合った友人Yと共に講習会に参加した。がしかし、ここでも彼に合気はかからない。何一つとして、合気技がかからないのだ。その周囲には投げたり、投げられたりをしている参加者が大勢いる。「にもかかわらず、自分にはかからない。やはり、駄目だったかと寂しいような気持ちになりました」―高萩は当時の胸中をそう語った。
寂寥感に包まれるような思いになっていた高萩の心が変わったのは、講習会後の懇親会に参加した時のこと。その日の講習会には氣空術・主宰の畑村会長のみならず、数名の本部門弟たちも指導にあたっていた。その全員が「みなさん、明るくて、優しい方ばかりだった」と高萩。
そんな雰囲気がいつしか、高萩の胸のつかえを融かした。さらに、近くの席にいた畑村会長の長男、吉彦さんとも親しく会話をした。合気がかからないという高萩の思いを察したのだろう。吉彦はその場で高萩に合気上げを試みた。
しかし、上がらない。そんな高萩に吉彦さんはこう言ったそうだ。「もっと、心も身体も柔らかくなってください」―そう言いながら、吉彦は合気上げよりさらに難易度の高い人差し指上げを試みた。すると、今まで岩のように動かなかった高萩の身体が心持ち、上がったのである。
「あの時ですね、これは何かあるんじゃないか、ここに求めていた合気があるんじゃないかと思ったのは…」―さらに懇親会が終了して数日後、高萩の携帯に畑村会長からこんなメールが入った。
「高萩さん、あなたには、なかなか合気がかからない。でも、あなた自身は合気を使えるようになります。貴殿はやはり特殊な方なのでしょう。しかし、これも天から授かったものです。ご自身が合気にかけられるのではなく、合気をかける側を目指して下さい。如何に心と身体と氣を使うかです。本物の合気を使いこなせる人はそうはいません。貴殿はその一人になる可能性は十分にあります」
初めて講習会に参加した、一体験者に対する師のメールである。感動を覚えた高萩は「駄目なら、駄目でもいい。入門して、やるだけのことをやってみよう」平成二十六年十月二十九日のことであった。
氣空術・東京講習会はその後、有志の申し出により、氣空術・東京支部が発足する。高萩も毎月一回、行われる稽古に欠かさず参加した。合気をつかみたい!その一心で。だが、「合気とはこういうものか」が体感できない。稽古相手の技にかからないのだ。氣空術には、二方向や二触法の身体操作による技があるが、かからないから、基本的な身体の使い方の感覚すら分からない。しかし、時々、自分がかける技には相手が倒れたり、崩れたりする。力で倒す、崩すとは違う。「こんなので?」でかかるから、それを身体に落とし込むのがなかなかできない。長年、パワーとスピードの武道をやってきた高萩である。その落差があるから、余計に悩んだ。
一時は「ここでも俺は無理かもしれない」と悩んだこともあったらしい。そんな高萩と自分はある時期から、親しくなった。武を学び、共に同じような経験をしてきた者同士だから、話も合う。「できない」と言う高萩の煩悶が痛いほどに分かった。その一方で感心もしていた。普通なら、「技がかからない」というその時点で「かからないなら、合気なんてないじゃないか」と思っていいはずである。にもかかわらず、高萩のあくなき探究心は消えなかった。合気への真摯なまでの思い。武神がいるとしたら、そんな人の心には光をかざすのかもしれない。繰り返す支部稽古、稽古仲間との交流が少しずつ、高萩の成長へとつながっていく。
そして、ある日の支部稽古。高萩は「これか!」という体験をする。当時、高萩は自分のブログに支部稽古の度に体験レポートを送ってくれていたが、その時の彼の感動の体験をここに記載する。
「触れられただけなのに重心を失い、体の軸が瞬間的に曲がってしまう。どう抵抗しても立っている事はできない。その時、合気劣等生の私は心身の全てで『合気』を堪能していました」
「これか?これなのか?これが合気なのか?」その感動は高萩にとって、最高のものになった。