今回、紹介するのは、禅道会総本部指導員、ディヤーナ国際学園カウンセラーの斎藤天(ひろし)である。現在、42歳と言うが、その風貌は年齢よりもはるかに若々しい。何度か電話で話したこともあるが、気さくで武張ったところのない、いい男である。
生まれは仙台市で、小学校三年の時に多賀城市に引越ししてきたそうだ。男三人兄弟の末っ子と言うので、三人兄弟にもまれて、さぞかし、やんちゃな少年と思ったのだが、実際はそうではなかったらしい。その理由は彼の父親の存在である。身長が180㎝近くあり、声も大きく、かなり怖い存在だったそうだ。さらに、母親も躾も厳しかった。悪さをしては、雪の中に裸で放り出されたり、騒々しくしていると、外の物置に閉じ込められたりもした。そのような家庭環境にいたからだろうか。本人曰く「どちらかというと、自己主張のない、赤面症の引っ込み思案の子ども」だったと言う。
当時を振り返って、斎藤はこのように語ってくれた。
「身長も低くて、順番は前から数えた方が早かったのです。体格的なこともあったと思いますが、周りの子と仲良くすることで、保身するような子どもでした。ですから、友だちと遊ぶより、親と釣りやキャンプなどの遊びについていくことの方が多かったですね。とにかく、親が絶対で、反抗するなど考えられませんでした。横着ではなかったのですが、今で言う多動な子で騒がしいタイプでした。学校でも大騒ぎをしては叱られていましたし、三歳年上の兄と母親の車の上に乗ってり台をして、車をボコボコにしたこともありました。子どもながらにして、そんな二面性があったのです。いずれにしても、前面に出るタイプではなかったので、自分のやりたいことをやるというより、周りの子どもたちに流されながら遊ぶ感じでした。ただ、その当時はゲームも普及していなかったので、外遊びはしていました。近所の公園でサッカーをやっている年上の人に誘われて、一緒にプレーをしたり、友だちと鬼ごっこやかくれんぼをして遊んでいました。いずれにせよ、強い子と仲良くすることで身を守る子どもでした。中学に進学してからは兄がバレーボール部に所属していたので入部したのですが、それを知っている三年生からはからはかわいがられたものの、兄とは無関係な二年生からは虐められました。ボールをぶつけられ、泣いたこともありました。普通なら、虐める相手を恨むか憎むところでしょうけれど、『自分にも悪いところがある』と思うような、一風、変わった考え方をする少年でした」
その斎藤には10歳年上の長男がいた。彼に言わせると、「不良で家にも帰らなかった」らしいが、就職してからは少しずつ自宅に帰るようになり、斎藤を連れ出してはサーフィンをしに行っていた。そんなかたちで、長男との関わりが増えたのである。当時を振り返って、彼はこんな話をしてくれた。
「家庭と学校で悩む自分を外に連れ出してくれ、サブカルチャーの世界に触れさせてくれたのが良かったですね。サーファー仲間や暴走族の集会など、長男が関わるいろいろな場に出かけました。また、サーフィンやスノーボードで楽しむことができたのも良かったです。親は夜になると遊びに行くので、心配していましたが、自分にとっては、かっこいい憧れの兄でした。中学校一年の時、悪友と煙草を吸って、学校に呼び出されたりすることもありました。親にはただ頭ごなしに怒られたのですが、兄から『ガキが煙草を吸ってカッコいいと思ってんだろうけど、調子こいてるだけでダサいな。しかも、吸うと、身長が伸びないからやめときな』とたしなめられたのです。以来、背伸びして、煙草を吸うようなことはやめました。それだけ、当時の自分には残る言葉だったのです。ちなみに長男は167㎝ぐらいでしたが、体はガッチリしていました。今でも兄弟三人のうちで一番、親密な関係を作ってくれているのは長男ですね。父親はあだ名が久(ひさし)でキューちゃんと呼ばれていたのですが、長男の名は輝久(てるひさ)で、みんなからテルさんと呼ばれ、先輩にも後輩にも慕われていました。父も兄も人の輪の中心にいるような存在でした。そういう意味で言うと、自分は親から脱皮しながら、長男の影響を受けながら育っている少年でした」
その後、斎藤は酒を飲んだり、クラブに行くような遊びを楽しんでいた。そんな彼が武道と関わるようになったのは、中国武術のような武道をやっていた父親の影響である。会社内で稽古をしていたのだが、その武道は裏拳と前蹴りを多用するのであったらしい。また、ボクシングのようにコークスクリューで相手のパンチをはじき返す打撃も特徴であった。その後、斎藤は父と次男と犬と一緒に朝、走ったりするようになり、それが楽しく、充実感もあった。本人なりに工夫をして、つま先で走るような漫画のようなこともしていたそうだ。
そして、高校一年の時に友人の誘いで、フルコンタクト空手の道場に通い始めた。すでにサーフィンなどで体もでき、筋力もついていたので、持て余していたエネルギーを発散するかのような感じがあったと言う。その道場は初心者への指導が丁寧で、初めの三か月は師範に別枠で基本の指導を受けていた。誘ってくれた二人の友達は来なくなり、斎藤だけが通っていた。ちょうどその頃、道場の組織が分裂騒動に巻き込まれたが、そこに彼の関心はなかった。あくまで、空手の稽古をするのが楽しかったのである。フルコンタクト空手ではあったが、組手も優しく相手をしてくれ、特に基本と移動稽古をしっかりと指導してもらった。そんな斎藤の印象に残っているのは、「基本移動の構えとスパーリングの構えが全然違うのは何故なんだろ?」と思うが答え「鍛錬法だから」など納得できるものはなかった。(サーフィンで実際の技を覚えて波の上で出来る様になるには、イメトレと反復練習、筋トレが効果的だった体験から、その疑問は膨らんだ)
緑帯の先輩にかなりごつくて強い人がいた。しかし、黒帯の先輩にはやられていて、「こんなに強い人でも勝てないのか」と感心したそうだ。その道場には一年ぐらい通ったが、サーフィンやスノーボードに夢中になり、学校でもスノーボード部を作ろうと奔走するなど、空手はやらなくなってしまった。
その後、父親の誘いで夜、搬入のアルバイトをしていた。人を集めたり、会社への連絡業務である。仕事が終わってから遊びに行ったりもしていた。父親が奔放な人だったので、男は「それぐらいでいいんじゃないか」と言われ、家に帰らないこともしばしばあった。しかし、学校には通い続けていたので無事に卒業。就職は父親の勧めもあって、お好み焼き店に就職した。
その後、東京の六本木でダーツバーを経営している人と縁ができ、上京する。ここで禅道会との出会いがあった。前回のトピックス記事で紹介した西川支部長が別の店で働いていたのだ。ただ、この時点では、まだ禅道会入門には至らなかった。
やがて、斎藤は酸素カプセルなどを備える整体院を起業する。お客様や海外の交友関係も増えてきたときに、ふと海外のジャンクなサブカルチャーの中でただもがいてきた人生だったこと、さらに日本に生まれ育ったはずなのに「日本文化を知らない自分」を痛烈に感じ恥じるような想いから、日本文化として武道を改めてやりたいと思ったのは、その頃である。
ちょうどその頃、整体院のお客さんでアメフト日本代表の人が来ていた。その関係で筋トレを教えてもらい、自分もトレーニングを始めたのである。しかし、ウエイトトレーニングと食事にデザートさらにプロテインと食を過剰に増やしたら、一気に体重が増えてしまい、病院の医師から「このままだと痛風になる」と言われた。しかも、筋肉はあまりついておらず、太っただけという印象だったそうだ。それがきっかけになったのか、斎藤が28歳の時に知り合いでもあった中島氏の紹介で禅道会に入門する。事前にテレビや動画を見て、前知識を持ったところ、「こんなに、技術的に素晴らしい空手の団体があるのか!」と感動に近いものを覚えたと言う。そして、東京の六本木道場に入門する。その時の師範が西川支部長だったのである。
斎藤の武道人生はこうして、幕を明けたのである。