空手の稽古に苦痛まで感じていた小沢。それでも足を“交互に出していれば、時間が解決しくれる”と自分に言い聞かせながら、毎日のランニングを欠かさなかった。現在の小沢からは考えられない話だが、そこまでの思いになっていたのである。
「それは子ども時代の『学校に行かなければならない』という苦痛に似たようなものでした。自分は学校給食が嫌でしてね、嫌いなものが多かったんです。当時は残さずに食べなければならかったから、それが苦痛でなりませんでした。朝、まだ寝ていたのに起きなければならないという気持ちと同質ものが稽古に対する意識に出てしまっていて…。だから、ランニングで一歩踏み出すのが嫌でしようがなかったんです。そんな中でも、なんとか稽古だけは休むことなく続けていましたが…」
その一歩を踏み出せたのは責任感や使命感ではなかった。
「過去にランニング中や基本稽古、移動稽古の最中にフッと気持ちが良くなることがあったんです。疲れ切って、先も過去も考えられなくなっていくことから、ゾーンに入ったようなランナーハイ現象になったんです。その経験を思い出すと、その気持ちの良さは縁側で日向ぼっこをしているのに近いものがありました。幸福感に近いものがあったんです。だから、嫌だった稽古をこなせたのも過去の幸福感、それをまた、味わえるんじゃないかという期待感があったんです」
そうした時にふと、頭に浮かんだ映像があった。それは門下生たちを連れて何処かに行く時、場所によっては意外と稽古後の“満たされ感”が小沢の心中にあったのだ。満たされるかのような幸せな感覚は景色のいいところでのランニングをする時に多く感じられた。自然の景色もとても美しく見え、小沢はつかの間の幸せを感じることができたのである。
ちょうど、三月の頃のことだ。いつものランニングコースに桜並木の道があり、そこを走っていると、「桜の花が咲いたら、どんなに心が癒されるだろう」と小沢は思っていた。嫌で仕方のない稽古が少しでも、楽な気分になれるんじゃないかという願望が出たのである。早く桜の花が咲いてほしいという一点に気持ちが集中していたのだ。当時の小沢はそれだけが楽しみで走っていた。
「その頃は食欲もなかったけど、身体を維持しなければと、無理して食べていました。それぐらい、あらゆる欲求が鈍化していたから、『桜の花が咲いてくれたら、どれだけ心の慰めになるか』と思っていたんです。それが稽古を続ける原動力にもなっていました」
そんな中で待ちわびていた桜の花が咲いた時、小沢の心の中に幸福感が蘇ってきた。そして、桜が開花して三日目ぐらいの朝、ランニング中に「ああ、そうだったのか」という確信的な感情が自分の中にわいたと言う。
それは、今までの小沢には感じ取れなかった、もう一つの心があるということ。「無意識という領域があったんだ」ということに気付いたのである。少し難解な話だが、小沢の人生を書いていくためにも続けて読んでほしい。小沢はその時、自分の心の苦しみは無意識から湧き上がってくるものだと感じたのである。自分の心というのは自分で意識できる範囲内という思い込みがあったのだが、実は膨大な無意識領域がある。そこから湧き上がってくるものが自分の苦しみの本質だと、小沢は気付いたのだ。そして、「稽古そのものは、それを省みるものだったんだ」と確信したのだ。
省みるとはどういうことかという、こちらの質問に小沢はこのように答えてくれた。
「それはイコール、『禅だ』と感じたのです。表の世界と内なる世界を分けているのは、『自分の心の分別心であり、本来は内も外もない』んだと。苦しみや葛藤は雨の日もあれば、天気のいい日もあるという空模様なもので、苦しみ・葛藤に集中しなければいいんだと思ったのです」
同時に、小沢はこう思った。禅、すなわち自らを省みる必要な要素が姿勢と呼吸法だと。それに対するアプローチが必要だという、意識が閃くように小沢の胸中に沸いてきたのだ。この時の気づきこそ、今の禅道会の骨格的な概念を感じ取る瞬間だったのであろう。
続けて、小沢はこんな話をしてくれた。
「そのあたりは、つまり、『武道で本当に心が強くなるか』という問いが潜在的な意識の中の問いかけになっていたんですね。姿勢と呼吸に対するアプローチは当時の武道・格闘技界では重視されていませんでしたが、自分自身のそれは“自己の無意識領域に対するものに必要な要素”だと思ったのです。現代は生活の大きな変化により、基礎的な呼吸力の養成が難しい時代だと思います。だからこそ、武道に基礎体力が必要なように、もう一つの大切なことが呼吸法をマスターすることにあるんです」
かくして、小沢は省みることに対するテクニカルなもの、そこに突然の閃きがわいた。その後、小沢は心理学をも学ぶようになったのだが、その時の閃くかのような気づきはまさに禅の世界だった。すなわち、自身の迷いや葛藤を客観的に把握できるようになったのである。
それを世間では、悟りとか超常現象のように置き換えられることが多い。しかしながら、心理学の分野では小沢が話したような「空白の原理」というものがある。何かが足りないという気持ちを持ち続けていくと、そこに意識のエネルギーが集中して解いていこうとするのだ。この心的現象を「空白の原理」という。小沢は嫌で仕方なく練習していたので、マインドワンダリングの心境に陥っていたのである。ちなみに、マインドワンダリング(Mind Wandering)とは、心が、「今この瞬間」に起こっていることに意識を向けず、目の前の課題や状況とは全く関係のないことを考えて、さまよう状態のことだ。
小沢はまさに、「未来に意識を馳せたり、現在の自分の心境の奥底にあるものを客観視できない」状況になっていたのである。
これは当時の小沢だけでなく、現代社会に生きる人々も同じような体験をしていると思う。ストレス社会の中で、現在に集中できず、現実に起きていいない未来に不安感を抱いたり、恐れを抱くマインドフルネスになれない状態に陥ってしまうのである。それではどうすればいいか。誰もが直面する事態(ストレスを感じる事態)に巧く対処したいと考えることだろう。それを小沢の話が大いなる参考になると思うのだ。
小沢は続けて、このように語った。
「人間は心身共に苦痛が生じると、脳がそれを緩和しようとするシステムがあり、脳内モルヒネが出ます。また、後付けで知ったことですが、脳にはA10神経のあたりで脳内モルヒネが出ると、無意識に蓄えられた情報が意識に逆流することを後になって知りました。それがさらに高まると、俗にいうランナーズハイみたいな状態になるんですね。意識的にそうなったのではなく、自分にとっては、そのきっかけが、街の桜の開花だったのでしょう。それと、ランニングや基本・移動稽古で疲れ切って、未来も過去も考えられなくなっていたことから、ゾーンに入ったようなランナーズハイ現象になっていたと思います。その経験から自分の心に生み出されたマインドフルネス。これが膨大な無意識領域に対する気づきとなり、そのためのアプローチがイコール武道だと確信を持てました。」
小沢にとっては、上記のことが武道人生における大きな閃き・きっかけになった。それが禅道会設立の源となっていくのである。