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梁山泊空手道連合・総帥 富樫宜弘の空手人生・1

空手の自主稽古を経て、キックボクサーを目指そうとしたものの…

今回、紹介するのは眞日本武道空手道連盟・梁山泊空手道連合の富樫宜弘総帥(以下、敬称略)である。武道、特に空手に関心を抱いていた富樫は中学時代から空手関連の本を買っては、読んでいたと言う。道場に通いたかったのだが、「田舎(山形県飽海郡八幡町)なので、空手の道場がなかったんです」-そう語る富樫の兄(富樫宜資 現・日本空手道無門会会長)の中学に自衛員(中学に来て入隊勧誘)が来た事があり、空手の演武をして、試割りをするなどを披露してくれたらしい。やがて、富樫は中学三年の夏休みに上京し、東京での生活が始まる。その後、富樫が東京都三鷹市にある大成高校に入学した半年後に、兄も大学受験のために東京に出てきた。その当時、目にしたのが漫画の「虹を呼ぶ拳」。そこには極真空手の第一回オープントーナメントが開かれると告知されており、兄が観戦に行ったそうだ。大会を観た兄は刺激を受けたのであろう。「これから空手をやろう!」と、その練習相手を富樫がやることになった。高校の仲間が伝統派の空手をやっていたので、その友人を呼んで自主稽古をしたこともあるそうだ。しかし、本格的に道場に通って、基本から学ぶわけではない。兄との稽古はその基本稽古すらなく、毎日、組手ばかりで嫌になり、「空手ではないものをやろう」と思ったそうだ。当時のことを富樫はこう語る。

「そうすれば、兄との練習をしなくていいと思ったんです。自主稽古自体も空手の本を読んで覚えた程度のことをやっていたから、技術を学ぶもなにもありませんでしたし…。それでも、武道・格闘技には関心があったので、高校一年の三学期にキックボクシングの名門、目黒ジム(現.藤本ジム)入門しました。そこでは基本的なパンチの打ち方や蹴り方、サンドバッグ練習などを先輩に教えてもらったのですが、コーチがつくのはプロ選手だけで、そうでない人たちは自分たちで思うように練習する感じでした」

それでも富樫は毎日、まじめに練習に励んだ。プロとしてキックボクシングのリングにも上がりたかったのだが、「高校生は出場できない」と言われ、断念せざるをえなかった。目標を失った富樫は次なる目標として、兄と二人で極真空手・第三回の大会に申し込みをした。

しかし、ここで富樫は不運に見舞われる。それは高校三年の二学期の頃のこと。自分の体調が芳しくないのを感じた富樫は病院でレントゲンを撮ったところ、「影がある」と言われたのである。そこでよく調べたところ、なんと肺結核になっており、「試合は諦めろ」と言われてしまったのだ。結局、そのまま病院に入院し、高校卒業まで病院から学校に通っていたのだそうだ。若くて、元気な盛りに肺結核と診断され、病院から学校への通学である。精神的にも苦痛であったろうと思うのだが、その質問に富樫はこう答えてくれた。

「これではキックボクシングも空手もできないなと思いましてね。病院にいる時にそれができないのなら、何をしようと考え、カメラマンになろうと思ったんです。当時から写真が好きだったので、兄の空手の稽古シーンは全部、自分が撮影をしていました」

沖縄への旅立ち。そこで沖縄拳法空手道に入門する

その後、高校を卒業から2年後、富樫は沖縄へと旅立つ。偶然の巡り合わせというか、たまたま滞在した首里の住まいの近所に沖縄拳法空手道の道場があったのだ。その師範である喜納敏光師(現・会長)に入門したい旨を伝え、その場で入門することになったのだが、ここには極真の第三回選手権大会の五位に入賞した金城健一(現/琉誠館館長)という空手家も同門でいた。入門時、富樫が自分の名前を口にしたところ、すでに兄の名前が極真空手大会参加で売れていたので、なんと挑戦しに来たと勘違いされてしまったらしい。翌日、富樫が道場に出向いたところ、道場の師範代クラスの一番強い三段の人が現れ、その場ですぐに練習も何もなく、試合をさせられたそうだ(面と防具を着用)。これで終わるかと思っていたら、また翌日も他の師範代と試合をすることになった。そんな過程を経て勘違いも解け、ようやく正式入門となり、空手の稽古ができるようになったそうだ。

「稽古の内容は最初は巻き藁打ち、型が中心でした。後はサンドバッグ練習。今のように、道場生が並んで基本の突き、蹴りをする稽古ではありませんでした。また、その当時、沖縄には回し蹴りはなかったんです。むろん、沖縄の空手の型にも回し蹴りはありません。だから、その道場では回し蹴りは自分が教えたようなものでした」

やがて、富樫は二十歳前後に昇段試合(型と組手)をやり、初段になるのだが、沖縄に行ったそもそもの目的は、九州の熊本の水俣に行くつもりだったと言う。その当時、水俣病の写真を撮影していたユージン・スミス氏という世界的にも有名なカメラマンに弟子入りするつもりだったのである。沖縄行きはたまたま、高校時代の友だちがいたので転がり込んだようなものだったらしい。「初段もとったことだし…」ということで、熊本に行ったところ、ユージン・スミス氏は裁判の取材で東京に行っており、不在であった。しかし、その家主さんが「彼が帰ってくるまで、待っていていいよ」と言われ、二・三日、滞在していたそうだ。ところが、当のユージン・スミス氏はなかなか帰って来なかったため、氏に見てもらいたい自分が撮影した写真を置いて、東京に戻ったのである。帰路の途中、兵庫県の赤穂市に知り合いがおり、その人も兄が出場した極真会館・第五回の大会を見学した人で、その家に泊めてもらった。ちなみに、その人も伝統派の空手をやっており、頭突きで瓦を十枚ぐらい割るような凄い人だったそうだ。

25歳の時に単身で東南アジアを渡り歩く

その後、東京に戻り、アルバイトをしながら生活をしていた富樫だが、また身体の調子が悪くなり、どんどん痩せてしまった。病院で検査してもらったところ、肺結核が再発してしまったのである。結局、そこからまた一年半ぐらい入院。ようやく退院できたのは二十二歳の頃だった。当時、すでに兄が無門会を設立していたので、その手伝いをしながら生活をしていたそうだ。無門会自体が道場をもって稽古するのではなく、集会所を借りたり、公園や自宅のちょっとしたスペースなどでやっていたそうだ。道場を本格的に設立(八王子市)したのは、それから二年程してからのこと。富樫は道場の看板を作ったり、壁に貼る大きな写真制作などの手伝いをしていた。また、無門会の試合の時は写真や最初は八ミリ、その後にビデオを撮るのが富樫の担当になっていた。自身は病後で体調も芳しくなく、スタミナをつけるような稽古もできなかったのである。だから、自分で道場を持つことなど一切、考えていなかった。ただ、ヌンチャクとかは好きでその練習はやっていたそうだ。その当時、富樫は八王子の国際研修センターで一年間、働いていた。そこに中近東、アフリカ、東南アジアの諸外国人が日本に勉強しに来ていた。日本滞在中の彼らは一か月、当時で15万ぐらいの助成が外務省の外郭団体(JIÇA国際協力機構)出るため、そこで部屋代や食費を払いながら日本の様々な専門分野の仕事の研修を受けていた。

「そこで働いていたことで海外の友人も多くでき、25歳の時に単身で東南アジアを渡り歩きました。宿泊先はその友人たちの家。語学も会話程度はできたので苦労することはありませんでした」

海外の旅はシンガポールへ行き、それからスリランカの友人宅(チュンナカム警察署において空手デモンストレーションを依頼される)に行き、また、シンガポールに戻ってきて、最終的に台湾に行って帰国した。そして、その翌年に結婚。一年ぐらいは杉並区に住んでいた。その後、練馬に転居。この間、富樫が空手を直接やることはなかったが、兄の主宰する無門会の手伝いをしていたそうである。

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