前回の続き。小沢が新たに学んでいた空手の本部道場があるS市と飯田市という地方のギャップについて。それをお互いに感じていた門下生同士だが、中には、長野の人は冬場の豪雪に備えて、藁ぶき屋根に住んでいると思っていた人もいたそうだ。いくらなんでも、それはないだろうと言いたくなるが、それぞれに異郷感があったのである。
話をもとに戻そう。その頃から小沢は改めて格闘性の追求=武道ではないんじゃないか、あるいは武道とはなんだろうという気持ちが心の中に芽生えてきていた。
大学時代の喧嘩も“理不尽なことに屈することのない力”を求めていたから、通常の武道・格闘技を目指す者とは異種の思いがもともと、小沢の心の中にあったのだ。
前々回の記事にも書いてきたように、小沢はメディアの格闘技情報にも目を向けていなかった。あくまでも、それとは別の世界に目を向けて空手を修練していた小沢である。何度も書くようだが、常に孤独・孤立・虚無感を抱いていた一風、変わった少年だったのである。それでも大学時代に学んでいたフルコンタクト空手では、日々の猛稽古の中でそれを紛らわすことができた。しかし、自ら支部道場を発足し、一人でいると、改めて武道を始めていた最初の頃の意識が蘇ってくる。それは小沢が子どもの頃の潜在的な影響なのだろう。「類は友を呼ぶ」と言うが、そんな小沢の道場に集まってくる入門者も似たような性格の少年たちだった。
そういう意味では、小沢が在学していた東海大学の武道・スポーツの体力エリートの集団とは大きな違いがあったのである。
長野支部での稽古では打つ、蹴る、投げる、という通常の空手の稽古内容をそのままやっていたそうだ。ただし、それまでのフルコンタクト空手とS市の空手団体とでは、構え・立ち方に大きな違いがあった。従来の空手(伝統派、フルコンタクト問わず)では三戦立ちによる基本稽古だったのに対して、S市の空手では自然体(組手のスタイルでの構え)からの基本稽古、移動稽古だったのである。それが外面上から見た時にそれまでの空手とは大きな違いがあった。
組手も五級までは今までと同じフルコンタクトルール、四級からは顔面あり。空手の骨格である基本・移動稽古はやっていたが、競技の違いから大きな変化があった。つまり、競技に合わせたその合理性を追うという内容だったのである。そのうえで、小沢が新しく稽古・指導していた空手が総合格闘技系に走ろうとしていたので、構えそのものも自然体に変化していたのだ。
今までのフルコンタクト空手との稽古の差は感じなかったかという問いに、小沢はこう答えた。
「顔面あり、投げありの稽古は自主稽古でもやっていたので、あまりギャップや違和感はなかったですね。『これは凄い!というような戦い方、組手』への感覚も特にありませんでした」
ちなみに、そこの空手の本部ではレスリングの全国選手や柔道のつわものも多かったそうだ。だから、「組み技などはとんでもないレベルだと思っていた」と言う小沢。だが、当の本人も本格的ではないにせよ、大学の授業で柔道とボクシングを学んでいた。さらに自主稽古では、組み技をはじめとする稽古も積んでいたのだ。その経験が次の話に続いた。
「率直に言って、新しく始めた空手がそんなに優れたものとは思わなかったんです。組み技(相撲のようなショートの組合)の稽古では、結構、投げていましたから。意外とシンプルな技で優位になるなと思ったものです」
新たな空手にそこまで大きなものを感じられなかった小沢の体験…前回の記事も書いたが、総合格闘技系の空手をやっていても、空手に対する疑問は依然として残ったままだったのである。
どんな空手の試合でも審判がいる。「始め!」があり、場外に出れば「待て!」が入る。しかし、実際の格闘シーンにはそれがないことが小沢が抱いた空手への疑問の一つ。さらに、実戦性の追求ということで、試合ではスーパーセーフ、拳サポーター着用だったが、スーパーセーフの面の厚さ一つとらえても、打撃の間合いが違うことを感じたのだ。「他にも疑問を感じることはいくらでもありました。アウトボクシングのようにジャブだけを打ってポイントで勝つというパターンがありますが、これも実戦という観点から言うと違ってきますね。また、体力的なもので言うと、そこで学んでいた空手では『バーベルスクワットとベンチプレスで何㎏挙げれるか』という審査基準があったのですが、前回もお話したように、もともと、力があって高重量のウエイトも簡単に上げる者がいるし、産まれ持った体力差は埋め切れるものじゃないことを痛感していたのです」
小沢が抱いていた疑問はそれだけではない。「格闘技や武道をやって、心が強くなるのか?」である。どの格闘技にも武道にも修練を積めば、精神力も強くなるという、お題目はあるがそこにも疑問を感じたのである。
この話を聞かされた時は、ちょっと驚いた。戦いに関して言うなら、空手の直接打撃制の組手や実際の喧嘩で場数を踏んでいた小沢である。試合も実戦でも慣れないうちは緊張や恐怖感から、ふだんの実力の半分も出せないというケースはいくらでもある。しかし、経験を重ねるにつれ、それらの感情は抑制することができるようになり、ある程度の余裕を持てるようになるはずだ。しかし、小沢は場数を重ねても精神力が強くなったとは思わなかった。それによって、自信を深めたという感じもなかった。技術はついて、実力的には強くはなったものの、それが精神力そのものにつながるかという疑問を常に抱いていたのである。補足すると、小沢が求めていたのは単に「戦いにおける度胸」ではなく、もっと高い次元での精神力だったのだろう。
さらに、である。格闘競技でもワンパンチで倒せるケースは少ない。空手と言えば、一撃必殺と言われるが、組手の中のめまぐるしい動きのなかで、おいそれと打撃がヒットするわけではないし、審判の「待て!」も入るから、このあたりも実戦とは違う。そういうトータルな意味を含めて、小沢の胸中には空手に対する疑問や違和感が残っていたのである。
話が少しそれるが、その当時、メディアでは「スーパーセーフと拳サポーター着用の戦い、あるいはボクシンググローブ着用の戦いとでどちらが実戦的かという論争も取沙汰されていた。このあたりは、素人の発想だ。グローブで打って効かせる打ち方と拳サポーターでスーパーセーフを打って効かせるのでは微妙に違う。要はルールによる違いだけだが、実際にやっている者でしかこのあたりは分からないだろう。
話変わって、小沢の長野支部のこと。道場に入ってくる子たちはいじめられっこが多く、普通に強くなりたいという意識を持って入門してくるような者が多く、格闘技に対する知識も認識もない。「そんな子たちに自信や継続性を持たせるには、どう指導していけばいいか」が小沢の課題になった。このあたりの考え方も、普通の指導者とは違う。むろん、他でも道場経営も考えはするが、当時の空手(格闘技も含めて)では、“いかに強くさせるか”の方が重視され、指導が行われていたのである。当然ながら、それについていけない者はふるい落とされる。しかし、小沢は門下生の意識に対する配慮を重視した。それによって入門者の80%は残るようになったと言う。当時のフルコンタクト空手の道場では90%は辞めてしまっていたのに比べれば、注目に値する門下生の定着率と言えるだろう。