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空手家・川合 昭仁の武道人生

毎日、サッカー漬けの中学三年間

今回、紹介するのは空手家・川合昭仁(敬称略)。空手を始めたきっかけは、喧嘩に強くなりたいという気持ちが根底にあったそうだ。中学時代はサッカー部に所属し、非常に厳しい先生だったと言う。本当は野球をやりたかったのだが、担任の先生がサッカー部の顧問だったのである。中学入学時から先輩から「サッカー部は厳しい」と聞いていたので、部活の希望書に書かなかったのだが、提出した時に先生から「サッカー部と書け」と言われ、半ば強引にサッカー部に入れられてしまった。それからは三年間、サッカー漬けの毎日が続く。

「冬は早朝から靴を履かずに裸足でのランニングをしたり、ボール蹴り。小学校時代はソフトボールをやっていたので、それを知っていた担任の先生が最初からサッカー部に入部させたかったんでしょうね。ところが、中学一年の時に父親が胃がんで33歳という若さで亡くなってしまったんです。それがきっかけで情緒不安定になり、今でいう登校拒否になってしまいました。今ではありえないことですが、サッカー部の先生から学校に呼び出されましてね。職員室に行ったら、いきなり腹を三発ぐらい殴られ、『今からグランドを10周しろ』と言われたんです。でも、それがきっかけで、自分としては立ち直れた気がしました。やる気が出たかというと、決してそうではありませんでした。夏休みも冬休みも休み無しの練習。いつも辞めたいと思っていましたが、辞められなかったんです。だから、何とか三年間、サッカーをやりつつ卒業を迎えたという感じでした。その後、地元の半田商業高校に入学しました。中学時代の同級生たちは他の高校でラグビー部に入り、中には花園に出場するぐらいの者もいました。自分も何かやりたいという気持ちがありましてね。ちょうどその頃、劇画で空手ブームがあり、そこで初めて極真空手を知ったのです。劇中では素手・蹴りで相手を倒していく。そこに魅了され、自分もこんな技を身に着けたいと思いました。というのは、自分が通っていた高校は定時制もあり、そこに通う生徒には悪い者も多かったんです。そういう連中と揉めたこともありました。そのせいで、『より喧嘩が強くなりたい』という気持ちから空手をやりたいと思うようになりました。当時、極真会館愛知支部は名古屋にしかなかったのですが、そこで指導されている師範が大会で輝かしい実績を挙げられた方だということは人づてに聞いていました。その後、高校を卒業して就職をした年に自分の友人が極真の愛知支部に入門したという話を聞いたんです。すでにその頃の極真会館は南道場、春日井道場もありました。自分は地元が半田なので車で通わなければならず、昭和道場に入門したのですが、仕事柄、土木建築関係なので、なかなか稽古に行けなくて入門してからは緑帯・三級までいくのが精いっぱいでした。仕事が多忙で道場に通えず、稽古が途絶えてしまったんです」

最愛のわが子の他界。しかし、悲しみのどん底から立ち上がる

ようやく仕事が落ち着いてから、川合はまた、白帯から再入門した。その当時はそういう門下生も多かったのだそうだ。当時の組手は大会ルールとは違い、掌底打ちで顔面あり、引っかけ、倒しもОKという激しい内容だった。そして再入門の最初の審査で同じ再入門の門下生と組手をやり、相手の鼻を折ってしまったのだそうだ。上段回し蹴りが見事にヒットしたのである。川合はその相手を病院に連れていき、師範からも「気をつけるように」と言われ、相手の家まで謝罪に行った。その時の話が他の道場でも噂になったらしい。道場の組手は顔面ありで大会に出れる稽古ではなかったが、再入門したあたりから大会向けの稽古も行われ、上位に進出する選手も増えてきた。そして、大会で勝利するための組手も行われるようになり、道場の雰囲気も変わってきたそうだ。中には優勝する門下生も出るようになり、いろいろな意味で道場も活発になってきた。もっとも有名になったのは軽量級で三連覇したYという選手。川合はと言うと、茶帯まで進級して、21歳で結婚。その頃に最初の子どもが生まれたのだが、先天性の心臓病を患っていたため、名古屋大学の病院に転院し、奥さんも看病でつきっきりになった。最愛の子どもである。その時の川合の辛さ、悲しみはさぞやと思われる。その気持ちを振り払いたかったのか、川合は昇段審査を受けた。師範は川合の家庭の状況を知っていて、ある日、道場に呼び出された。そしてこう言われたのである。「黒帯をやると事前に言ったのはおまえが初めてだ」と。それが川合の発奮材料になった。身内からはこんな状態であるにもかかわらず、空手ばかりをやってと非難されたそうだ。そして子どもはわずか1歳2か月の命で他界してしまった。

「あの時はショックで空手を辞めようかとも思いました。でも、そんな状況にとれた黒帯だからこそがんばろうと思い直しまして。それから三年ぐらいしてから、『三河地区に道場を出すから指導員として赴け』と言われ、道場探しをして、岡崎の城北会館という場で極真の岡崎道場をオープンしました。最盛期で40人ぐらいの門下生がいました。口コミで入門者も多く、師範も月に最低一回は電車で指導に来てくれたので、帰りは自分が車で自宅まで送っていくというパターンでした。その頃の稽古内容は基本稽古、移動稽古、技という三種類があり、指導マニュアルに添って、各指導員は指導にあたっていました。師範は記録を残すことが好きなので、それを忠実にやっているうちに師範から『川合とは絶対だな』という師弟関係が結ばれていたものです。その後、安城市にも道場を出すことになり、その時に分支部長に就任されました」

川合自身は大会流の組手より、掌打ち、投げのあるより実戦的な組手に興味を持っていたので、大会には出なかったそうだ。崩し、サバキは得意とし数々の伝説を残したようである。

考え抜いた末に極真会館を退会する

しかし、ここで大きな問題が持ち上がる。大山総裁が他界し、極真会館は分裂騒動になったのである。他の道場の指導員も分裂によって、他の派閥に流れていった。川合にも誘いがあったらしい。しかし、それは断り、指導員としての任務を黙々とこなしていた。その時期には川合の先輩も同期もいなくなり、後輩ばかりになっていた。当然ながら次第にそれまでの情熱も失せていく。当時、37歳の頃である。結局、考え抜いた末に退会届を師範に郵送した。それを知った人から「どうしたんだ」という電話がかかってきたり、師範代クラスの先輩が自宅まで来たが、川合の決意は揺るがなかった。その頃の川合の心境はと言うと…

「組織内で自分ばかりが振り回されているような気持ちがあったんです。今まで当然としてやってきたことに疑問を抱くようになってしまいまして。新しい組織に移ろうという気持ちにもなりませんでした。その後、一年ぐらいしてからいちばん仲のよかった別組織の支部長になった先輩から、『手伝ってくれないか』という話を持ちかけられ、そこで指導員としてやるようになりました。三年間ぐらいやっていのですが、また、別の新しい支部長が来たと同時に先輩も自分も辞めてしまったんです。その後、志遂館(しすいかん)という自分の道場を2003年に立ち上げました。そこで地元でやっていたのですが、募集にも力を入れていなかったため、門下生も次第に少なくなり、2018年に閉館してしまいました」

川合の極真会館時代の段位は二段。道場を閉めた現在、稽古は個人的にやるだけで、交流の深い禅道会の合宿に出たり、合気を術理とする「氣空術」という武術を昔の仲間と共に学んだりしている。極真は辞めたとはいえ、まだまだ空手は川合のライフワークの一つになっているのだ。現在では妻と二人の娘に感謝してやまないようだ。そして今まで出逢った人達にも同様の感情だと笑顔で話していた。最後に川合はこんなことを語ってくれた。

「若い頃のような厳しい鍛練はできませんが、身体が動く限り、自然体で戦える武道を目指していきたいですね」

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