喧嘩三昧の毎日から、禅道会に入門
今回、記事に取り上げるのは禅道会・横浜支部の増田一樹。長野県諏訪市出身の彼は中学校一年生の時から、禅道会で稽古をしていたそうだ。ずいぶん早い入門だが、その理由を訊ねると、こんな答えが返ってきた。
「きっかけは小学校の低学年の時に上級生から虐めにあっていたことです。子ども心にそれが嫌でならなかったのですが、その当時、学校のクラスで戦いごっこが流行っていたのです。その中では自分が強かったんですね。次第に自信がついていって、虐めてきた上級生に対しても強気に出たら、ピタッと止まりました。そのあたりから、腕力至上主義になっていき、中学一年の頃は他校の生徒とも喧嘩をしていました。そんな調子で素行が悪かったので、学校から親を呼ばれたのです。そこで「武道でもやって、気持ちを改めろ」ということになり、禅道会諏訪支部に入門しました。無理矢理、やらされたわけではなかったので、すぐにでも入門したいという感じでした」
それが中学一年の終わりごろ。入門して楽しかったのは、スパーリングだったと言う。戦いごっこの延長戦でそれができるということでどっぷりはまってしまったのである。それまでは自己流でやっていたから、構えも無茶苦茶。技術も何もない。それを基本からしっかり学んだことで、自分でも強くなっていくのが分かったそうだ。そして、学校の戦いごっこでは勝てない相手がいたが、空手を始めて半年ぐらいに挑戦したところ、あっさり勝ってしまい、自信を深めることができたと言う。さらに、初めて出場した少年部の大会でいきなり準優勝である。
「図に乗って天狗になってしまったんですね。そして、『自分は強い』という気持ちから地元で喧嘩が強いという年長者に挑戦したのです。ところが相手にならずやられてしまいました。最後は謝って止めてもらいました。相手は高校生で自分は中学三年の頃。体力的な問題があったにせよ、自分が一番強いと思っていたので、悔しくて泣いたことを今でも覚えています」
結果が良いとか悪いとかは別にして、稽古していることは実際の喧嘩では通用しないと、諦めてもおかしくはない。しかし、本人曰く「禅道会の稽古そのものが実戦的だったので、喧嘩に負けたからといって、やめる気持ちは一つもありませんでした」
他団体の大会で負けた相手に勝利を挙げる
それよりも悔しくて、稽古に臨むきっかけとなったのは二回目の少年部の大会で同期と対戦してポイント負けしたことだった。
「自分は強い、試合でも勝てると思っていたので、負けたことが悔しくてならなかったです。勝つためには練習量を増やすしかないと考えました。当時の少年部は一般部の稽古には参加できなかったのですが、支部長も自分の気持ちを汲み取ってくれて稽古に出てもいいと言ってくれました」
その後、増田は稽古に専念した。そして一年後、彼は他団体主催の大会に出場する。彼が負けた相手も別支部から出場しており、互いに決勝戦まで勝ち上がった。リベンジマッチだったが、ここで勝利を挙げることができたのである。
「ものすごく嬉しかったことを覚えています。大会出場前から学校でも出ることを話しており、絶対に勝つ。優勝すると言っていたので勝ってまた、天狗になりました(笑)」
その後、高校生になった増田は少年部から一般部に入り、稽古内容は一気にハードになった。また、この当時、増田には自分を含めて四人の同年代の同期がいて、みんなが競争意識を持つようになっていた。他には絶対に負けたくないと、それこそ空手漬けの毎日になったのである。ちなみに、一般部になってから大会に出ると、周りは大人ばかりなので、初めの頃は一回戦を勝っても二回戦で負けるなど、簡単には勝てなくなってきた。
「天狗の鼻をへし折られましたが、大人に負けるものかと三か月に一回のペースで行われる試合に連続して出場し、徐々に勝率を挙げられるようになりました。ある大会でその同期のうちの一人と決勝で対戦したことがあります。この時はパンチをもらい、フラッシュダウンで倒れてしまい、審判の続行不可能の判定で負けてしまいました。自分ではまだできると思ったけど、目が泳いでいたため、レフリーに危険と判断されたのです」
様々な理由から空手から離れていた時期も
この当時、増田は16歳。体力もついて大人にも通用するという自信を深め、稽古に励んでいたが、三年生になって進路のことが対面したり、私生活でもいろいろあり、稽古に対する気持ちが冷めてしまった。今まではあれだけやっていた稽古も週一になったり、空手一辺倒の生活ではなくなってしまったのである。やがて、進路も決まり、渋谷にある柔道整復師の学校に入学した。その時、大畑支部長に上京すると話したところ、「だったら、うちにこないか」と言われ、横浜支部に移ることになったのである。その後は二十歳ぐらいまでは試合に出ていたが、それまでの空手漬けの毎日というより、体を動かしたいという程度の気持ちになっていたらしい。その後、柔道整復師の学校は一年で中退。改めて目指したのが彫り師である。とあるスタジオでスクールがあり、そこで一年ぐらい学んだ後、25歳で彫り師として独立した。ただ、それだけでは生活できないので、他のアルバイトをしながら二足の草鞋でやっていたそうだ。しかし、親からの要望もあり、彫り師は廃業。三十手前に鍼灸師の学校に入り、資格を取って、三十過ぎに再び空手に復帰したのである。
復帰してからの戦績は2018年・全日本RF武道空手道選手権大会 重量級で優勝。その勢いに乗って、翌年の2019年・RF武道空手道関東大会も勝利、さらに2020年・RF武道空手道関東大会でも勝利することができた。連勝を続けた増田はブロを目指そうと、2021年 DEEPフューチャーファイトキングトーナメント出場したが残念ながら敗退。翌年は怪我で出れず、2023年も出場したが負けてしまった。ここで優勝、もしくは準優勝すればプロになれる。
「この試合に勝って、プロとしてやっていきたいというのが今のところの目標です。自分は寝技が苦手で、タックルで倒されてから攻撃を受けてポイントを取られてしまうのです。ですから、寝技をしっかり学ぶことと、タックルで倒されない下半身の強さと反応の速さを練習しています。自分としては、打撃が得意なのでジャブで相手の距離を詰めて、そこからひたすらパンチ連打、最後にハイキックで倒すような試合を理想としています」
あらゆる門下生の目的や希望に応じた指導をしていきたい
現在、禅道会横浜支部の指導員でもある増田。教える側にもなって、何か考え方に変化はあったか?との問いに、こんな回答があった。
「自分自身が現役で向上心があるので、当初は厳しい稽古だったと思います。でも、門下生のみんながプロを目指しているわけではありません。体を動かすことを楽しみたいという方もいれば、ダイエット目的の方もみえると思います。目的もそれぞれあるので、全ての方に学んでもらえるような指導を行っています。ちなみに、禅道会は横浜支部に限ったことではありませんが、みんなの仲がいいので、和気あいあいとした雰囲気があります。そのような環境のもとで強くなりたい人はそれを目指せる、プロを目指すこともできる、一方であらゆる方に空手を楽しく学んでもらえる、そんなオールマイティな場を提供していきたいですね」