一度、真剣に足を踏み入れたからには、そうは簡単にやめられないのが武道の奥の深さである。それが魅力でもあるのだが、鍛えに鍛えぬいても年を経るにつれ、肉体は衰える。スピードも反射神経もパワーも二十代のようにはいかない。それでも、継続さえすれば体力的にもやっていけるのが武道である。それをできる身体操作を修得するのもめざすところだろう。今回、紹介するのはそれを地で行っている空手家・小林邦之である。禅道会・長野支部千曲地区で少年部の指導にあたる64歳。
まずは小林の生い立ちから訊ねてみた。少年時代は家にいるより、外遊びが好きだったと言う。時代もそういう時代だったのだ。
「小学校から高校にいたるまで友だちに恵まれていました。一人でいるより友だちと過ごす時間が多かったですね。体を動かすのが好きだったので、中学・高校時代は軟式テニスをやっていました。その頃から熱中するタイプだったのでしょう。中学の時は部活の仲間と朝から晩まで学校のテニスコートで練習をしていました。学校に行っているというのに、勉強よりテニスに夢中になっていました。高校もテニス部中心の学生時代。勉強は苦手で部活に学校に行っているようなものでした。そこまでテニスに夢中になっていたのは、他の仲間もそうだったからでしょう。約束はしていないのに、学校に行くとテニスコートに部員が集まっていました」
そこまでテニスに熱中していた小林がなぜ、空手に関心を抱いたかというと、ブルースリーの映画と空手バカ一代の影響が強かった。しかし、空手をやることを親から反対されたうえに、道場もなかった。一時は通信教育を受けようとまで思っていたらしい。その後、高校を卒業した彼は働こうとは思ったものの、就職難で仕事がなかった。そこへタイミング良く自衛隊の勧誘があったのである。試験を受けて合格した小林はとりあえず二年はやろうと入隊した。練習が厳しいと思われる自衛隊である。それを訊ねると…
「部活の練習で鍛えられていたので、体力的には十分に通用しました。隊内には仲間もできましたし、先輩もかわいがってくれました。自衛隊員としてやるべき肉体トレーニングは厳しかったけど、それが当たり前だと受け止めてやっていました。自衛隊の風土が合っていたと思います」
その後、小林は五年目に昇任試験を受けて三等陸曹(軍曹)になった。思い出に残っているのは、演習で一つのミッションをチームで達成したことだそうだ。開催される競技会の中では射撃が得意だったらしい。教官も務め、選手の選出や指導もしていた。自衛隊という場が小林にとって、水に合っていたのだろう。禅道会に入門したきっかけも自衛隊に同好会があったからだ。自分の子どもにも何か習わせたいと思っていた小林にとって、勤務後に練習しているみんなの一生懸命さが輝いて見えたと言う。「子どもに学ばせるなら、自分もやろう」と思った彼が入会を申し込むと、「いいですよ、やりましょう!」と快く迎えてくれたらしい。
「稽古が新鮮でしたね。仕事では自分が上司ですが、練習場所の体育館に行くと、上下関係が変わるのですが、そんなことも意識しませんでした。基本稽古、移動稽古、ミット、マススパーという内容でトータル二時間の練習でした」
それが35歳の時だと言うから、空手を始めるにはずいぶん遅咲きである。転勤で松本駐屯地から長野市に移ってからはすでに発足していた長野支部に移籍。初段になったのが41歳だった。
「一緒に入門した子どもも小学校六年生まで長野支部で練習していました。青木支部長のお子さんが同い年だったのですが、二人で試合をしたこともあります。自分自身は有段者になるには大会で優勝しなければならないので、毎回、出場していました。初のマスターズの試合は無差別で青木先輩(青木支部長の叔父)と対戦。十人組手ですごい強さを見ていたので、勝てるわけがないと思っていたのですが、本戦二分間で決着がつかず、延長戦。その二分でも決着がつかず、合計六分間の試合でした。体力的にも限界でしたが、結果的に何とか勝利することができました。苦しかったけれど、初めての大きな大会でもあったので思い出に残っています。青木先輩とは今も交流が続いています」
そんな小林の試合経歴を振り返ると、なかなかの活躍ぶりである。全日本大会―ジャパンオープン1999VTリアルファイティング空手道選手権大会マスターズで優勝、全日本大会―ジャパンオープン2000VTリアルファイティング空手道選手権大会マスターズで優勝、全日本大会―ジャパンオープン2003VTリアルファイティング空手道選手権大会マスターズ軽重量級で優勝。ちなみに、最後の試合は45歳だった。「体力的に問題はなかったか?」という問いに、「試合中にステップしている時に足がもつれて、その時点でもう辞めようと思いました。応援している人もそれに気づいたようです」という答えが返ってきた。しかしながら、自衛隊に勤務しながら大会に向けての練習である。その内容もハードだったと思うのだが、優勝に賭ける気持ちが強かったのだろう。ちなみに禅道会のマスターズの試合は35歳以上だが、小林は出場者の中でも最年長だったらしい。奮戦する彼を毎回、支部の門下生が応援に来てくれたそうだ。
引退とともに、辞めるケースも多々あるが、それは考えなかったと言う。その理由がこちら。
「試合と練習は別です。試合という目標がなくなっても、自分の体力維持や体の使い方、技の精度を高めることはできると思うので。さらに、子どもたちの指導もあるので、空手には生涯、関わっていくと思います。道場の空間が好きなのです。共に練習をする仲間がいて、心身ともにそこにつかっていけますし。以前は試合が目の前にあったので、それに向けた意識になっていました。今は自分が強くなるというより、指導にあたっている子どもたちの成長が喜びになります」
一時は自衛隊方式の教え方もあったらしい。強い口調で指導したりもした。しかし、じょじょにそれも変わった。一人ひとりの性格や個性を見ながら、教える。褒めて育てる。子どもでも人格を尊重して教える。それが現在の小林の教え方である。
「やる気のない子をどうすれば、やれるようになるかを考えるなど、試行錯誤しています。通っているのは幼稚園から中学生で、クラス分けをして教えています。大会でいい成績を挙げたり、できなかったことができるようになると、指導の手ごたえを感じます。個々の差もありますが、子どもたちには「昨日の自分より、今日の自分が良ければいい!」と伝えています。とにかく毎日、続けることが才能。同じことをずっと繰り返すことも努力。そういう過程を通して、レベルアップしていく彼らを応援していきたいです。空手をやっていて良かったと言われるのも嬉しいですね」
長野支部はリーダーである青木支部長が「若くて指導力もある。教え方も熱心」と言う。石岡指導員を始め、二人とも熱意をもって教える姿が小林にもいい影響を及ぼしているそうだ。
「自分の内面と向き合いながら、禅道会という武道を生涯、続けていきたい。そして子どもたちには人生の先輩として教えられることは伝えていきたいと思っています」
生涯武道!小林にとって空手はライフワークの一環になっている。