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空手道 大誠館 宮崎文洋館長の武道人生 3

石井館長命令で正道会館北海道支部長に就任する

前回の続き。空手に夢中になっていた宮崎だが、所属していた北海道支部長が様々なトラブルがあり、正道会館を離れてしまった。その後、黒帯の門下生たちも様々な理由で去っていくという事態が起きたのである。宮崎自身も疑問がわいてきて、「私も辞めます」と正道会館を退会してしまった。それまで、あれだけ熱中していた空手である。退会したのはそれなりの理由があったのだろうが、それでも、石井館長がとても好きだったので、何とかできないかなと考えていたそうだ。また、総本部でも札幌支部の黒帯があまりにも辞めるので、問題視されていた。事態を重く見た総本部では、時の師範である角田氏が石井館長の命令ではるばる大阪から北海道まで出向いてきたのである。当時を振り返って、宮崎はこんな話をしてくれた。

「その当時はフィットネスクラブの場所を借りて練習をしていたんです。ところが、角田師範代が来てくれたのに、元の支部長も疾走して、有段者もいない状況。角田師範代が驚いて、『どうなっているんだ』と、私の兄に相談を持ちかけたんです。すでに兄も正道会館から離れていたため、『空手の集まりは弟がやっているから』と言われ、私の方に連絡が入りました。その時、すでに末期的な状況で北海道支部がなくなるという状況だったので、角田師範代も危惧されたんですね。東京で旅費から宿泊代まで全て払うからと言われ、話し合いをすることになりました」

東京に出向いて角田師範と会った宮崎は新高輪プリンスホテルで「正道会館・北海道を続けるために、お前が支部長になってくれないか」と延々と朝方まで説得された。結果、「それが石井館長命令なら、引き受けます」と答え、再スタートを切るかたちになったのである。とはいえ、それまでは一門下生だった宮崎である。いきなりの支部長就任命令という話で覚悟するようなことはなかったのだろうか。

そう訊ねると、「やるなら、徹底的にやろうと思ったんです。中途半端にやりたくなかったので、仕事として空手をやることを決意しました」という答が返ってきた。

北海道支部再構築と発展に向けて、邁進する日々

続けて、当時の様子をこのように語ってくれた。

「石井館長はとても人の使い方が上手な方で、なおかつ褒め上手で『200人集まったら、自分が指導にきてやるよ』と言われたんです。私もどうすれば集まるかと試行錯誤する毎日でした。当時は地区会館を借りてスタートしていたのですが、それだけでの人集めは難しいことを実感し、常設道場を設立しないと、人は集められないと考えたんですね。そこで、借金をして、薄野にあるビルの地下に40坪ぐらいの広さの道場を作りました。幸い、ビルの家賃も安かったのが助かったのですが、『どうしたら、人が集まるだろうか』と、いろいろ宣伝方法を考えながらやっていくうちに、人が人を呼ぶようになり、200人を超えるのに2年もかからなかったんです。その頃のフルコンタクト空手と言えば、『痛い、怖い、暗い』というイメージが先行していましてね、稽古していても会話ができないような雰囲気があったんです。それでは入門者があっても、続かないじゃないですか。そこでその真逆をとろうと、『明るく、楽しく、誰にでもできる空手』というものを前面に打ち出していくようにしたんです。それが功をなして体験に来られる方も他のフルコンタクト空手とは違う雰囲気と、そのギャップに驚いて入門してくれるようになりました」

経営者としても類まれなる戦略家であった石井館長はそんな宮崎に対して、「次は400人集まったらどうするか」という明確な目標設定を毎回、設定しながら、助言をしてくれた。そして、最後に700人集まったら、北海道でK1を開催するとまで約束してくれたのだ。

「そうなると、常設道場一つでは無理なので、いろいろ展開していかなければならないということで、最初は旭川、次に東区、西区、南区へと常設道場を展開していったんです。結果、700人の門下生を集めることができました。そして、口約通り、K1を札幌で開催してくれました。その頃の話ですが、石井館長と会った時に、『今度は総本部を抜け』と言われたんです。本部の管轄している道場(名古屋の中部本部と東京本部)の総数は1300名、名古屋は400人でそれはすでに超えていたので、次の目標が東京の900人、最後が総本部のある大阪1300人が私の目標になりました。同時に、石井館長から『今のフルコンタクト空手の時代は戦国時代と同じやで』と言われ、一つひとつの主要都市を北海道から下に降りてこいという命を受けたんです」

石井館長の言葉を真摯に受け取る宮崎は次々に言われたことを実現していった。そして北海道の門下生も700人を超えてから、次にどうしたら東京の900人を超えられるかを考えたと言う。

「考え抜いた揚句、札幌にもう一つ巨大な道場が必要だという結論になり、東区の支部がいちばん人が集まっていたので、東区にそれができないかと考え、一番人通りの多い交差点の角地のビル(三階建て)の一階、二階のフロアを全て借り、そこに薄野から北海道本部を移動したんです」

そこは全面ガラス張りの道場で外から中が見える空手道場。武道や格闘技の道場に入門してくる人は大抵、緊張感を抱くものだ。そういう意味で、中が見えるのとそうでないのとではずいぶん、違う。稽古風景がオープン化されていることも含めて、宮崎が考えた展開の全てが宣伝になり、入門者も増え、やがて目標としていた東京本部の900人を抜くことができた。

門下生、1000人までの規模を達成!

宮崎の話は続く。

「1000人までいったものの、以降、1300人を集めるのが難しかったんです。その頃、本部管轄以外の支部では600人が最大だったので、他の支部長からも会議がある度に『すごいですね』と言われていましたが、自分の中では総本部を抜くというのが石井館長との約束だったので、そう言われても『そんなことはない』と純粋に思っていました。並行して、上から攻めて来いと言われていたので、次に仙台に支部を出すことにしたのですが、その許可がなかなか下りず、これは一年がかりになってしまいました。そこで、最初はフィットネスクラブに入って、『正道会館仙台に初上陸!』と指導していたのですが、ここでも一年もしないうちに50人ぐらいの人が集まりましてね。これなら、常設道場として勝負できるなと確信し、コンビニの跡地がちょうど空いていたので、そこを契約したんです。そうこうするうちに北海道も門下生が増えていき、1100人ぐらいになっていました。これで仙台も出したら、二年もしないうちに総本部超えをできるなと確信していたんです」

しかしながら、好事魔多し。そのあたりから、石井館長に様々な問題が起こるようになった。また、K1が主催されていたこともあり、すでに正道会館は別の人に任されていたのである。それまで“石井館長命”できていた宮崎である。石井館長から次の館長を立てようという話が持ち上がってくる中でも、納得ができなかったのだ。総本部役員に入っていた宮崎は役員会に召集されるが、心の中では石井館長に戻ってもらおうと署名活動をしていたのだそうだ。その役員会では、次期館長も決めようという話になったが、「それはまだ早いんじゃないか」と意見したのは宮崎ともう一人の支部長だけだった。

そのあたりから、宮崎の立場も怪しくなり、結果的に破門を言い渡された。宮崎自身、「石井館長もいないなら、ここまでやったら、いいかな」という思いになったと言う。

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