ミキサーで右腕がちぎれてしまった島山。別の病院に移った彼は、今度は腹部の皮膚を取り、それを腕にかぶせて癒着させようという手術を行った。これがかなり、「痛かった」と島山は言う。考えてもみてほしい。腕がちぎれたうえに、腹部の皮膚をとるのである。手術後の麻酔がさめた後の激痛は痛み止めが効くようなレベルではなかったであろう。それはまさに、想像を絶する激痛であったと思う。
それでも、島山は腕が癒着することに望みをかけて、痛みに耐えていた。がしかし、やはり、腕が再び腐敗してきたのである。結果、担当医からは、「もう、動かすことは不可能だから、上腕から切断した方がいい」と絶望的なことを言われた。しかし、島山の母が子を思う親心から「ちょっとでも残っているなら、何とかしよう」と言う言葉を聞いて、その気持ちに応えるべく、トータル六回にもわたる手術を行ったのである。だが、それでも腕は腐敗する。医師も懸命に手術の内容を考えたのであろう。今度は、右太ももの厚い皮膚を剥いで、それを腕につけ、剥いだ太ももには今まで同様、腹部の皮膚を張るというすさまじい手術が行われた。島山は当時を振り返って、こう語る。
「それはもう、言葉にならないぐらいの痛さでした。麻酔が切れてからは、ちょっと動いただけで、激痛が走るので、身動きがとれませんでした。本当に地獄のような毎日でした」
通常なら、そんな日々が続けば、どんなに強靭な人でも精神的に挫折するだろう。腕が癒着する見込みはたたない、手術を繰り返しても治る目途がつくどころか、より激しい痛みに悩まされる。武道家・格闘家は通常の人に比べれば、怪我や痛みには耐性を持っている。しかし、島山の状況は通常の怪我・痛みではなかったのである。それでも、彼は「何とかしたい」の一心であった。天はその思いをくみ取ってくれたのだろうか。痛みが少しずつ引いていったある日のこと…。
「手術を終えて、だいぶ経ってからのことですが、右腕に意識を持っていったら、肘が少し動いたんです。ひょっとしてこれは!と思い、ペットボトルを入れたクーラーボックスの紐を右肘にぶら下げ、軽い筋トレみたいなことをしたんですね。ウエイトトレーニングでやる、カールみたいな動かし方ですが、それを少しずつペットボトルの水の量を増やして、やるようになって以来、次第に動くようになったのです。そのあたりから、『これはいける!』と確信を持てるようになりました。ちょうどその頃、自分のことを気にかけて応援してくれていた道場の稽古仲間から『島山さん、復帰しましょう!』と言ってくれまして…。自分もみんなの励ましが嬉しかったものですから、『じゃあ、やる!』と答えたんです」
それからの島山の回復力は目を見張るものがあった。周囲から「あいつは化け物か」と言われるぐらい、驚くべき早さで治ったのである。この話を聞いた時、強い信念を抱く人間に不可能はないのではないかという思いを改めてさせられた。自分は現実主義者だが、そのような人間に対して“神の応援はある”と思うことが、これまでに数回あった。島山の驚異的な回復力にもそれを感じさせられたのである。
島山の話に戻そう。肘は動くようになったものの、失った手は戻らない。そこで彼は義手を作る(義手専門店で)ことにしたのだが、一年しないと、作成にかかる国からのお金は出ない。
「それだと、稽古ができないじゃないですか。だから、当時で30万円ぐらいかかったものの、義手を作って、道場に復帰したのです」
飽くなき執念というのは、こういう人のことを言うのだろうなと思いつつ、島山の話を聞いた。
「復帰してからは、出遅れた分を取り戻そうという意気込みで、稽古に励みました。当時、極真でも試合の活躍ぶりが注目されていたYという選手がいて、彼と二人で毎日、愛知県内の四か所の道場をまわって、スパーリングをしたものです。相手をしてもらう、みんなから嫌がられたました」
…みんなから嫌がられた…この話を聞いた時、島山には失礼ではあったが、「それは島山さんにハンディキャップがあったからですか?」と不躾な質問をした。ところが、そうではなかったのである。片手でありながらも、島山はスパーリングで強かったのだ。だから、彼が稽古に行くと、みんなから「また、島山が来たか…」と嫌がられたのが事実だったのである。初めの頃こそ、片手というハンディからバランスも悪かったそうだが、稽古をするにつれ、それも次第に慣れていったというから、島山の空手に賭ける熱意には本当に頭が下がるような思いになった。その後、毎日の稽古で自信を抱いた彼は、中部交流試合に出場する。300名ぐらいの出場者の中で、四回戦勝ち抜きで四位になった。その後、ウエイト制の中量級でベスト16位、全日本大会にも出場してこちらもベスト16位、その翌年のウエイト制では、ベスト8位にまでなった。道場の先生からは「今のおまえは、精神的にも技術的にも強くなった!」と言われたそうだ。ちなみに、島山の右腕は試合の度に接合した個所が切れて、血だらけになったそうだ。さらに、義手のまま腕立て伏せをするので、これも壊れてしまう。何かいい方法はないかと考えた島山は、義足に使用されるインナーを腕に装着することを思いついた。これが功をなして、接合箇所が切れることはなくなったそうだ(今は専用のインナーがある)。
試合での優勝を目指していた島山だが、年齢的にも30歳になり、先生からも「30になったら、現役から引退しろ」と言われていたこともあり、「自分でも良くやってきたな」という思いから、引退を決意した。現代に生きる武士のような人だなと思いつつ、「悔いもなかったのですね」と言ったところ、「常にマットの上で死ねたら本望と思っていたのです。片手はないけれど、戦う時は死んでもいいやと…。自分の全力を出し切ればいいと思っていたんですね。でも、後になって、思い直しました。上位の選手と試合する時はそんな受け身の気持ちではなく、殺すぐらいの勢いでやらなければいけないなと。それだけが悔いとして残りました」
そんな島山が引退した当時、極真は大山総裁亡き後の分裂騒動が勃発していた。島山にも様々な道場からの誘いがあったらしい。しかし、彼は籍だけは今までの道場に残し、以降、空手からは一切、身を引いてしまったのである。強くなりたい一心で空手の稽古に身を投じ、事故で片腕を無くしてしまってからも道場に復帰して、稽古をして、大会にまで臨んで、上位の戦績を残した。あくなき信念で挑み続けた島山は燃え尽きてしまったのだろうか。そんなことを思いながら、「それ以降はどうされていたのでしょう」と訊ねたところ…
「バックカントリーって、ご存じですか?スノーボードを持って、山に登り、ある地点から滑降するというスポーツをやっていました。右手が無いから、スキーのストックは持てないので、スノーボードを使おうと思ったのです。登山仲間ができたり、自然と触れ合うこともできたり、楽しい思いをしました」
そのバックカントリーは10年程続けていたそうだ。結婚もして、子どももできた。もう、空手とは縁はないと思っていた島山だが、あるきっかけから、再び、空手の世界に戻ることになる。それもまた、偶然というか、必然的とも言える出来事だったのだ。続きは次回へ。