空手界からはすっかり、身を引いた島山だったが、自分の子どもたちに礼儀作法を学ばせたいという思いから、ある伝統派の空手道場に入門させることにした。すると、その師範が子どもたちに「うちの道場はどこから知ったのか?」と聞かれた際、極真で有名だった島山の名前が知られてしまったのである。そして、その師範から「飲み会に来られませんか」と誘われ、「じゃあ、顔を出そう」と出向いたのが島山にとって、第二の空手人生のきっかけになったのだ。
そこには、他流派の空手の師範をはじめ、キックボクシングのプロ選手など、打撃の世界で活躍してきた人たちばかり(道場のOB)が揃っていた。呑みが進むにつれ、武道や格闘技をやっている者の常というか、盛り上がるうちにお互いに腕相撲をするなど、力比べみたいなことが始まったのである。そして…「島山さん、今度、稽古をつけてもらえませんか?」と言われたのだ。「じゃあ、今度の日曜日にやりましょう」と答えた島山が当日、道場に赴くと、そこには他流派の空手家など、7名ぐらいの猛者たちが集まっていた。島山にしてみれば、自分一人だけ、アウェイである。みんな、それなり腕っぷしには自信があったのであろう。島山は見た目、屈強な体格をしているわけでもない、巨漢でもない。隻腕の空手家と呼ばれて活躍していたのは、もう、10年も前の話である。道場に集った者たちにしてみれば、「なにするものぞ」という気持ちがあったに違いない。そして、メインの組手。当時のことを島山はこう語る。
「全員とやりましたよ。そして、圧倒的な実力で退けました。自分で言うのもなんですが、みんな、『こんなに強いのか!』と唖然していました。油断していたのもあったのでしょうね。そして、また次も相手をしてほしいと言われ、再び組手をしたのですが、ここでも全員を圧倒しました。すると、そこにいたみんなから『引退して10年も経つうえ、片手でもあるのに、こんなに強いとは…。島山さん、ぜひ、もう一度、空手を指導される方になってください』と依頼されたのです。でも、『仕事もあるし、毎週は無理だぞ』と言ったところ、『人を集めるので体育館でもいいから、月一でもいいから、やってくれ』ということになったのです。最初は“島ちゃん会”という名称で始めたところ、結構、人も集まりましてね。楽しく稽古しながら、終わってから飲むというのが三年間続きました。稽古には様々な道場の師範代クラスの人や子どもたちなど、いろいろな人が参加してくれました」
そのうち、島山の長男が中学になった時、「野球をやりたい」と言うので、クラブチームに入れた。すると、そこの代表者と息が合い、話している時に島山が「空手をやっている」と言ったところ、相手の方がデイサービスの仕事をしており、そこの二階が空いているので、使ってはどうかと言われたのだ。「これで本格的にできるな」ということになり、仲間も喜んでくれたと言う。稽古は全員が仕事を持っているので、火曜・金曜の週二で20時からにしようということになった。最初の頃こそ、参加者は少なかったものの、島ちゃん会の稽古仲間をはじめ、家族ぐるみで参加してくれる人も増え、次第に門下生が増えていった。順風満帆な出だしだったのだが、ここで問題勃発。デイサービスの代表から「又貸しはダメだと大家さんから言われた」と言われ、出ていかざるをえなくなったのである。島山の話は続く。
「30名ぐらいの門下生もいるし、何処か探さなければならないということになりまして。通ってくれている人たちのためにも近くでなければならない。ところが、その近辺は家賃が高かったのです。必死で回ったところ、名古屋市内の中川区に好条件の場所を見つけることができました。ところが、そこは何年も使われていない部屋で床はギシギシ音を立てる、タイルは浮き上がっている、天井もトイレも汚い。まるでお化け屋敷のようでした。それをリフォームしようとし始めたところ、家族をはじめ、門下のみんなが手伝ってくれて、綺麗に仕上げ、立派な道場として立ち上げることができたのです。あの時は本当にみんなに感謝の気持ちでいっぱいになりました。今でも思い入れのある道場です。現在は年齢層問わず、様々な方々が入門してくれるようになりました『子どもを通わせたい』という親御さんが来た時、お父さんやお母さんに『一緒にやられてみませんか』と誘うと、入ってくれる。外国人も多く、ロシア、ネパール、中国、韓国、フィリピンなどの人も入門してくるようになりました。場所がいいのかどうなのか、不思議に人が集まるんですね」
このあたりは島山の人柄の良さと道場の雰囲気の良さもあるのだろう。現在は火曜日から金曜日までやり、さらに日曜日の午前中も依頼を受けて始めたところ、休みであるにもかかわらず、稽古生が増えてきた。そして、その全員が一生懸命にやっているのだ。そのようなシーンを見るにつれ、島山は「なんとかして自分が伝えられるものをやっていきたい」と思うようになったのである。
稽古は基本、移動稽古、展開稽古、組手、型をトータルにやっているそうだ。誰もが楽しく空手を学べるというのが島山道場のコンセプトだが、大会出場希望者の場合はハードだ。他流派から来た26歳の門下生は道場の開いている日は連日、稽古に励み、2019年総極真のサムライ杯で優勝した。そのほかの門下生の大会での活躍ぶり・実績は、総極真の大会で小学校5年生、6年生、中学一年生が優勝、さらに、極真・松井派の大会・若鯱杯では島山の長男が高校時代と一般部で優勝、その他の大会でもかなりの数の優勝者が出ている。
選手には、かなり厳しい練習を課しているが、それでもみんながんばってやっているそうだ。特に子どもたちの活躍ぶりが目覚ましいと島山は言う。教えていて、門下生の実力・実績が出てくるのは嬉しいものである。「やりがいも実感している」と島山は嬉しそうに語っていた。これは選手のがんばりようもあるが、島山をはじめ、道場の指導員の尽力の賜物もあると言えるだろう。余談になるが、島山道場が加盟しているJFKOの大会に行くと、「島山さん、戻ってこられたんですね」と多くの関係者に声をかけられるので、空手界に再び戻ったことを改めて良かったと思っているそうだ。
そんな島山にこんなことを訊ねた。「抽象的な質問ですが、島山先生にとって、空手とはなんでしょう?」と…。その回答がこちら。
「自分の人生そのものですね。昔は戦うことだけが目標でした。今は自分の中に存在する武道としての空手を伝えるのが楽しみであるし、嬉しいです。空手を教えることで、子どもたちをはじめ、門下生の人生にも関わることができる。それは素晴らしいことだと思うのです。ですから、自分自身も鍛練しつつ、自分が体験してきた空手というものを高齢者になっても、ずっと教え続けていきたい。今も自主トレに余念がないんですよ。しんどくても、なんで、俺はこんなことするんだろうと思いながらもやっています。むろん、若い時に比べたら、総合的なパワーは落ちていますが、その一方で無駄のない動き、自然な体の使い方ができるようになってきました。ですから、改めて、武道としての空手の奥深さを実感しています。それを探求していくことで、いつかは達人と言われる境地を目指したいですね」
空手家、島山浩司、55歳。彼が志す道はこれからも広がっていく。