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西川享助の武道人生①

体格差にモノを言わせて、喧嘩三昧の少年時代

禅道会の小金井支部長を務める、西川享助という空手家がいる。年齢が48歳で、出身は東京。少年時代はどんな子だったか?という、こちらの問いに、こんな答えが返ってきた。

「母親が172㎝もあって、大きかったんです。(ちなみに、現在の西川の身長と体重は192㎝、体重93㎏)。小さい頃はおっとりとした少年でした。父親が神道夢想流杖術という武道をやっており、幼少期から道場に連れていかれました。でも、稽古中の気合が怖くて、泣いて帰ってきたことを覚えています。だから、父親に同行するのが嫌でなりませんでした。武道好きな父親から子どもの頃からブルースリーの映画を見せられたのですが、カンフー映画に出演するジャッキーチェンに興味を持ったのが私のきっかけになりました。他にはプロレスの佐山選手のタイガーマスク、グレートカブキが好きでした。空手スタイルで打つ、蹴るという当時のプロレスでは斬新な打撃技を見せる試合に魅了されたのです。そのあたりですね。戦うことに意識が向いていったのは。ですから、小学校高学年から喧嘩ばかりしていました。体か大きいので、負けることがなかったです。本当は中国拳法をやりたかったですが、道場がなくて…。

ただ、体を動かすのは好きだったので、一年生から野球をやっていました。中国拳法だけでなく、実戦的な武道を習いたかったのですが、父親は古流の武道をやっていたこともあり、フルコンタクト空手をはじめとする武道には批判的だったのです。しかし、どうしても興味があるので、中国武術の著名な先生の本を買ってきては独学で勉強して、喧嘩の時にそれを試したりしていました。道場には通わせてもらえなかったので、本を見て、練習するだけ。喧嘩の時にそれを実際に使って、『西川は喧嘩が強い』と言われていました。なので、小学校六年生の時点でいつも学校に呼び出されて、問題児扱いされていました」

その後、中学校に進学した西川は漫画で連載されていたビーバップハイスクールの影響を受けた。中学も荒れる学校で、他の学校まで出向いて遠征ファイトをしていたそうだ。その時点で170㎝、中学二年生には180㎝になっていたから、当然ながら負け知らず。野球もやっていたが、悪さばかりで真剣にやっていなかったと言う。「躾の厳しい両親には何も言われなかったのか?」という問いに「諦められていたのです」と苦笑交じりに答えてくれた。
その父親だが、武道をやっているから、人格者と思ったのだが、酒乱で暴れることが多々あったと言う。そんな父親を西川が毎回、警察に迎えに行ったらしい。父親は切れると見境が無く、夫婦喧嘩が絶えない家庭だった。

ちなみに西川の祖父は父親が中学生の時に脳溢血で他界して、会ったことはないが、池袋の大きな家に住んでいたらしい。秋田犬が七頭もいて、その犬を盗まれないようにと、シェパードまで飼っていたというから、桁外れの話である。その祖父が他界した時、駅から家まで花が並んだと言う。祖父はその筋では有名な任侠の男だったのだ。しかし、西川はそうとは知らず、後になって奥さんから聞いて初めて知ったそうだ。だが、その祖父が他界した時に組は解散して、父親には継がせなかった。

「私にはそのような暴力的な部分が遺伝的にあったのでしょうね」と西川は笑いながら話してくれた。その西川本人も中学、高校時代はずっと、暴れていた。キレると見境ない少年だったのだ。ちなみに、西川は小学校から二十歳ぐらいまで東久留米市に住んでいた。その地域的には大きな団地があり、学校もマンモス校で土地柄も悪かったらしい。その様子はテレビで学校の荒れ具合が特集されるほどだったと言う。

バンドを組んで、ライブハウスでも活躍

喧嘩三昧の西川だったが、中学三年の時に暴力とは無縁のバンドを始めたそうだ。ちょうど、バンドブームだった時代である。ちなみに西川の母親がピアノの教師。その血筋を西川も受け継いでいたのであろう。ギターを弾き始めたら、すぐにできるようになり、「これは面白い!」と思った。何らかの物事を始めた時、面白いと思うかどうかはその後の熱意に影響するものである。中三から始めたバンドは、高校時代はより本格的になり、ライブハウスに出るまでになった。その頃はすでに自分たちで作曲して、チケットまで販売していたのである。その打ち上げで酒を飲んで、酔った勢いでまた、周りの人間と喧嘩である。自由奔放というか、ずいぶん無茶苦茶な少年時代だったのである。

しかし、西川はバンドブームが盛んな時に喧嘩と喫煙がきっかけとなり、高校二年で退学になった。本当は留年だったのだ。本人も残るつもりだったが、担当した教員から「定時制に行け」と言われた。そこで「嫌だ」とごねたところ、「単位を全部取ったことにするから、そのまま定時制の四年生に編入しろ。それなら、みんなと同じ三年で卒業できる」と言われ、定時制の高校に入学したのである。しかし、その定時制の高校に行くと、より荒れる悪い学校だったのだ。そこで、西川が体験したことが彼の人生を変える、きっかけになった。

「4年に編入したので年上の悪い先輩ばかりだけど、かわいがられましてね。夏休み前に車の免許を取ったので、先輩たちに『どこかに遊びに行きませんか』と誘ったら、見かけは完璧なまでのヤンキーたちが『俺たちは母親の面倒みている。昼間働いて勉強しているから、そんなことできるわけがないだろう』と言われたのです。それを聞いた時、自分はなんて甘いんだろうと思いました。これじゃいけないと思い、先輩の誘いで仕事を始めました。その後、卒業、19歳ぐらいにトラックの運転手になったのですが、バブルがはじけた時でした。事業縮小で営業所が閉鎖して、どこかに移ると言われていまして…。ちょうどその頃、小金井市の母方の実家に引越しをしたので、通いやすい高円寺の営業所に入りました。その会社の社員がバンドマンや役者という個性的な人たちばかりだったのです。当時、ライブハウスの店長で武見さんという方がいて、その人がフルコンタクト空手をやっていたので、ライブハウスの空き時間にミットやサンドバッグなどで遊んだり、また営業所に極真の指導員だった橋本さんという役者さんもいて物流センターで空き時間に教わったりしていました、本当に楽しかったです。」

その時の仲間内でその後キックボクサーになって現在新宿レフティージムの会長になった浜川憲一や、女子柔術家の茂木康子、プロボクサーになったなど、みんなバンドから格闘技に転向した仲間、バンドブーム→格闘技ブームの時代だったのだろう。

西川もそんな日々を送っている頃に、K1が始まった。テレビで第一回の放映を見て、「自分も空手をやりたかったんだ」と、改めて思ったそうだ。早速、道場探しをしたところ、勤務先の近くに正道会館の道場があり、22歳の時に入門した。子どもの頃からずっとやりかった空手である。それが楽しくて、「もうバンドをやるの忘れて毎日のように道場に行っていました」と西川は当時の思い出を振り返る。

入門して、最初の一年はフルコンタクト空手のクラスで稽古をしていたが、審査会を二回受けた後、キックボクシングルールのK1クラスに移った。グローブ着用で顔面ありだが、より実戦的な練習をできることに惹かれたそうだ。今でこそ、偉丈夫な西川だが、当時は細く、体重も70㎏ぐらいしかなかった。そこで、勤務先の近くにあるトレーニングジムにも入会して、ウェイトトレーニングも始めた。空手の稽古と筋トレに費やす日々。その甲斐あって、25歳の時には何と90㎏ぐらいまでになったそうだ。

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