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禅道会・石岡沙織の武道人生②

高校卒業後に就職、そして禅道会広島支部に入門

ここで話はもう一度、石岡の高校時代に戻る。彼女が通っていたのは、工業高校で、なおかつ体育会系の学校だった。勢い、学校全体ののりは良くて、体育祭、球技大会、マラソン、運動系のイベントは毎年、大いに盛り上がったそうだ。文化祭は工業高校で学んでいる知識や技術を活かし、寸法を正確に測りながら看板を作った。先生から、売店の売り上げはいくらでも使っていいと言われて張り切ってやったそうだ。柔道部だけではなく、高校生活も楽しんでいたのである。

その後、高校を卒業した石岡は土木会社に就職した。仕事の内容は橋梁のAutoCAD (オートキャド)の作図であった。

「会社では何にも知らないのに一から丁寧に教えてもらいました。でも、全然、覚えられなくて、なおかつ残業続き。図面の納期も迫られ、できない私は迷惑をかけてしまったと思います」

仕事を覚えることや納期に追われる日々を送る石岡だったが、ある日、知人から会社の近くにある禅道会の道場(広島支部)の話を聞かされた。

「いいタイミングで、女子の募集をしていると聞いたんです。そして、『柔道をやっていれば大丈夫だよ』と言われて…。当時の総合格闘技では、なんらかの武道や格闘技のバックボーンがあれば、試合でも勝てると言われたんです。『それならやってみようかな』という軽い気持ちで入門しました。稽古は仕事もあるので一週間で二回ぐらい。投げや寝技があるなら、柔道の経験を活かせるかなと思っていたのですが、全然、違うんですね。総合格闘技だから、パンチもある、蹴りもあるのは当たり前なのですが、最初の頃は『そんな攻撃もありなの!?』と面食らいました」

柔道とは違う練習内容に戸惑いを感じたものの、彼女には稽古に取り組む熱心さがある。基本稽古と移動稽古を繰り返し学ぶにつれ、パンチとキックを組み手でも自在に繰り出せるまでに上達していった。それを見ていた支部長から「寝技が有効になる試合ならいいでしょ」と言われて、禅道会主催の試合に出場した。ずいぶん、早い段階での試合出場だなと思ったものの、石岡はそれをごく当たり前のように受け入れたのである。そして、始めてわずか半年でSMACK GIRLプロデビュー。残念ながら、結果は判定負けだった。

「とても悔しかったですね。自分の実力を思い知らされたのと、勝利までもっていけなかったことが歯がゆくて。それから交通費もかかるのが痛かったです。広島から東京の往復の新幹線代も馬鹿になりませんし」

今度こそは!の思いで、次の試合前の練習は前回以上に気持ちが入った。真剣な彼女に勝利の女神が微笑んだのであろう。結果は判定で勝利を治めることができた。それにしても、試合に対する石岡のモチベーションの強さと気持ちの強さに感心する。例えば、試合前の緊張感だ。多くの選手がそれを体験しているし、自分も現役時代は後楽園ホールの控室で自分の試合を待つときの雰囲気がたまらなかった。リングに上がる前が怖いのである。上がりさえすれば、肚も座るのだが、待っている間の張り詰めるような感じが嫌だった。それを石岡に聞いたところ、こんな答えが返ってきた。

「緊張感という感じは特になく、殴られて『このやろう!』ってやり返す感じでした」

このあたりは、すがすがしいまでに勝ち気で気持ちがいい。そして、迎えた三試合目は…

「女性総合格闘家として、すでに活躍されているV.V Mei(ヴィー・ヴィー・めい)選手と試合をしたのですが、強い方で足関節で負けてしまいました。そのあたりからですね、本気でやらないと勝てないと思うようになったのは。ちょうどその頃、仕事も入社一年目。残業で大変だし、練習は仕事が多忙で週三回できればいい方でした。そして、プロになってからは入社一年の新人が有休を使って試合。毎回、会社に申し訳ないと思っていたんです。そこで、会社も辞めて東京に行こうと決意しました」

働きながら、練習漬けの毎日を送る

練習に専念するために上京を決意した石岡だが、それからの行動力と思い切りの良さに驚かされた。普通なら、住む家も決めて、引っ越し準備も済ませたうえで旅立つとものだが、彼女は身一つで東京に行ったと言う。住むところも決めていなかったから、最初の一週間ぐらいは道場に泊まらせてもらったそうだ。こうして、練習メインの生活を送ろうという石岡の一歩が始まった。

「昼間は仕事をして、夜の合同練習に参加する毎日でした。それとは別に朝練もしていました。練習内容は公園でランニングと自重での筋トレを一日おきに。それがだいたい、一時間から一時間半です。試合前になると、道場でスパーリングやミット練習もやりました。それが朝練で、昼はプロ練もあったのですが、ここで大変な思いをしました。ディープジムという場所に集まって、当時のトップクラスの選手と練習試合をしたのですが、スパーリングでは何度も関節技をかけられて、極められて、成す術がありませんでした。やられて、悔しいというレベルではなく、対抗できないのです。練習のたびにやられて、痛い思いをして、それでもやるしかない。当時を振り返ると、『よく、嫌にならなかったな』と思います。ところが、ある日、極められる本数が減っていることに気づいたのです。当時は西川先生に『取られる本数を減らして、取れるようになればいい』と言われていたんですね。だから、初めて関節技を取れた日は、嬉しくて、嬉しくて…。興奮状態が夜の合同練習まで続いていました。そこからは、取ったり、取られたり。以降、ギリギリながら先輩たちと対等な練習ができるようになりました。柔道をやってきたとはいえ、立ち技中心の練習だったので、私の中に関節技という概念はなかったのです。それができるようになって、攻めのバリエーションが広がりました。たまに、思うんですよ。『いま、高校の柔道部に戻ったら関節技で勝てるのに』って。それぐらい、組み技・関節技をマッチングさせると、自分が優位に立てるんですね」

やられても挫けない。実力の差を感じても諦めない。練習の積み重ねで実力アップを目指す!という石岡の思いは、徐々に培われていった。

先生であり、父親のような存在だった西川支部長

練習を主軸にできるようになった石岡は試合のスケジュールに合わせて、アルバイトを変えたり、禅道会の事務的な仕事をしていた。忙しいが、充実した毎日を過ごしていたのだ。

ここで話は前後する。彼女が練習していたのは禅道会小金井支部で支部長が以前、このトピックス記事に何度か登場した西川享助である。選手にとって、師の存在は大きい。石岡にとって、西岡支部長にはどんな印象が根付いているのだろう。また、練習していた小金井支部の雰囲気についても語ってもらった。

「私にとって西川支部長は先生であり、父親のような感じでもありました。思い出に残っているのが日曜日の六本木道場の練習後にみんなで飲んだ時のこと。ここで、お酒を飲まなかった私が運転手を任されたのです。都心で道路も入り組んでいて、『こんな複雑で大変なところ、運転できない』と冷や冷やしながら、ハンドルを握っていたのですが、何度か車をぶつけてしまいました。そんなことがあっても、食事会や飲み会に何度も連れて行ってもらえました。私の中では西川先生というと、お酒が強いというイメージが残っています」

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