当時の石岡は19歳から20歳ぐらい。彼女の目からすると、周りの人がみんな大人に見えたと言う。
「試合も応援にきていただくのが当たり前のように思っていました。お仕事忙しい中、ありがとうございます!という感じ。今なら、応援していただくことがどれだけエネルギーになるかを実感しているので、当時の自分に『もっともっと、感謝しなさい』と言いに行きたいです。負ければ負けたで、『次、またがんばれよ!』と言われるので、次はがんばろうというモチベーションアップになっていました。練習をして、試合で結果を出していくことは自分を成長させるためのプロセス。そこに関わっていただける方々にはもっと、感謝すべきでした。その後、道場で少年部の指導を任されたのですが、その子たちも応援に来てくれるようになりました。多くの人に支えられる中で、『勝つところを見てほしい』という気持ちがより強くなったのです」
石岡の戦績をかいつまんで見ると、2007年の試合は禅道会主催のリアルファイティング空手道選手権大会52kg以下の部で優勝を果たす。プロ四戦目には格上の吉田正子選手に判定勝ちして、徐々に注目を集めるようになった。そして、JEWELS旗揚げ戦の試合では初のメインイベントで長野美香と対戦し、判定勝利を収める。
「その試合はまだ戦績のない自分が使ってもらっていいのかと思いました。でも、出る以上は絶対に負けられない。練習にも力が入ったし、チケットも売りました。そして、2009年は初のシュートボクシングルールに挑戦して、判定勝ちでした。この試合会場に女子総合格闘技界でレジェンドの藤井恵選手が来ていたました。引退されるという話を耳にしていたので、リング上から『最後に私とお願いします』と頼んだら、受けてくれました。下馬評では勝てないという声が圧倒的に多かったですね。仲間内からも『何、言っているんだ、勝てるわけないじゃないか』と言われました。実力の差は誰が見ても明らかだったのでしょう。それでもチャンスはあると思っていたので、練習にも力が入りました。」
秒殺女王と言われていた藤井選手だが、試合で石岡は粘りを見せた。ひっくり返して、上になり、パウンドもできた。セコンドからは行けるぞ!という熱い声も飛んだ。ちなみに、この試合は女子ではまだ少ないパウンドルール(マウントポジションを取ってからのパンチあり)だった。パウンドを取られて、パンチを受ける一方になると、続行不可とみなされ、試合は止められる。それを知っている石岡は前日からレフリーに「パウンド、すぐに止めないでください」と懇願したと言う。果敢に戦った彼女だが、ラウンド後半に腕十字で一本負けになった。ちなみにこの試合後、藤井選手は引退せず、海外でも試合をするようになった。石岡に「他に心に残っている試合は?」と訊ねたところ、「いくつもありますが、その一つは韓国のハム・ソヒ選手です」という答えがあった。試合の結果は言うと、一回目は初回、パンチでダウンを取られて判定負け。三年ぶりに迎えた二回目の試合はやはり、打撃で圧倒されて判定負け。この時はあばらを折られたと言う。「今度こそ」という思いで挑んだ二年後の三回目の試合。この時はフェザー級タイトルマッチで、石岡にとっては過去二回のリベンジマッチであり、チャンピオンに臨む試合でもあった。それだけにいつも以上に気合も入った。開始直後からペースを握ってテイクダウンからグラウンドの展開に持ち込む。息を止めることがないかのように関節技を仕掛けて攻め込む。本人も「このままいけば、勝てる!」と思ったそうだ。ラウンド終わり間際には腕ひしぎ十字固めが極まりかけるが、二ラウンド目でスタミナ切れ。失速した石岡はハム・ソヒ選手の腕ひしぎ十字固めで一本負けをしてしまった。そして試合後、こんな気持ちが浮かんできた。「こんなに練習しても勝てないとなると、どうすればいいんだろう」「また、練習するしかないか。練習したことが必ず試合で出せるわけじゃないし」…様々な思いが頭をよぎったそうである。しかし、負けたことで気持ちが折れることはなかった。
石岡の試合を動画で観たが、アグレッシブで下がることを知らない戦いぶりである。体は細くても、スピリットはファイター中のファイターなのだ。そんな彼女に「こういうつなぎがあると、試合を有利に持ち運べるというものはあるか?」と訪ねたところ、こんな答えが返ってきた。
「私の場合、組まないとだめなんです。組むと打開策が見つかります。ストライカー、つまり打撃系ではなく、組みが得意。でも、それだけでは強くなれないと思い、打撃を磨くためにも2009年にはシュートボクシングにも参戦しました。他にもグラッブリングルールの試合にも出ました。総合格闘技をやる以上、トータルな技を身につけたいと思ったのです。選手の中には、天才肌の人がいますが、私はそうじゃない。言われたことをすぐできるタイプでもない。積み重ねの練習を繰り返すことが上達につながると思っています」
練習を積み重ねて実力アップをしていくこと、それは格闘家のみならず、アスリートなら誰もがそうであろう。地道なことの繰り返しである。時にスランプに陥ったり、停滞したり、思うようにいかないことはいくらでもある。それでもめげずにやり続けることが自分の自信になる。試合で結果を出せるようにもなる。だから、石岡はどんな時も諦めることなく、ひたすらに練習に取り組んだのだ。ちなみに、彼女が語った2009年のシュートボクシングの試合は準決勝で絶対女王RENAと対戦。この時はアクシデントにより、セコンドからのタオル投入でTKO負けを喫した。組んで投げまくったら、途中で腰をひねってしまい、激痛で立てなくなったのだ。しかし、その年のリアルファイティング空手道選手権大会52kg以下の部に出場し、優勝を果たしている。ちなみに、同選手権には翌年も出場し、二年連続でという、輝かしい実績を挙げている。
格闘技に怪我はつきものだが、試合や練習ではなく、ウイルス性髄膜炎という病気になったことがある。
「稽古して、家に帰ってから夜中にすごく吐いたんです。どうしようもなくなって、西川先生に電話して窮状を伝えたら、駆け付けてくれました。それから吉祥寺の病院に入院したのですが、二日間、吐きました。お母さんも心配して実家から来てくれました」
日頃は気丈な石岡もこれには参ったらしい。脊髄にうった注射も猛烈に痛かったと言う。支部長の西川もそんな彼女を気遣って、見舞いにきてくれたそうだ。その病気になる前のこと、JEWELSで階級のタイトルを決めるトーナメントがあり、石岡も出場することになっていた。それまでに体調を戻して、練習ができるかと危惧していた石岡だが…
「対戦相手は能村さくら選手。戦績から言っても私が勝つだろうと言われていました。それだけ期待されていたんです。退院して、練習をしてコンディションを整えればいけると思ったのですが、判定で負けてしまいました。『ここで勝たなければ、ダメでしょう』と自分でも思ったことを今でも覚えています。病気だから練習できなかったとか自分への言い訳にすぎません。どんな理由があったにせよ、負けは負け。その結果を覆すことはできません。だから、本当に悔しかったです。とはいえ、能村選手は私が予想していた以上に強かったのです。周りも『ここまで強いのか』と驚くぐらいでした。この試合、ありとあらゆる面で自分の中で完敗でした」