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総合護身術 護真会 代表 山本貴史の武道人生①

今回、紹介するのは総合護身術 護真会 代表/総師範の山本貴史。イスラエルで本格的な警護の訓練を受け、国内外の要人・著名人等を多数警護(ボディガード)している。現在は、「大切な人を守りたい!」をスローガンに、実戦護身CQCの普及に力を注いでいる。

そんな山本は和歌山県出身で、幼少期から「強くならなければならない」と思っていたのである。それが山本がまだ三歳の時、両親が離婚して妹が産まれたばかりだった。父親が暴力的で今で言うと、家庭内暴力のような目に遭っていたのである。

「小学校の低学年の頃、母親に新しい男性ができて、『お父さんと呼びなさい』と言われたけど、その気持ちになれなかったのです。その人も暴力的で母親が叩かれたりしていました。そんな母親を守りたいけれど、守れない。それができないのが子ども心に悔しくて、強くなりたいと思っていました。武道を始めたきっかけは書店で空手という武道を知り、『これをやろう』と思ったのです。その頃、極真空手の大山先生の本を読み、ブルースリーの『燃えよ、ドラゴン』を見て、自分がやるのは空手しかないと思いました」

 

空手と少林寺拳法の稽古に没頭する

そして山本は田辺市にある空手道場に入門。そこから稽古に没頭して、中学生ぐらいになった時、仲の良かった先輩が少林寺拳法をやっており、その稽古もするようになったのである。その頃、母親が自宅の隣に縫製工場をやっており、救命胴衣の縫製業務をしていた。職場は板の間になっていたので、早朝と夜は自主稽古をひたすらやっていたそうだ。

「そんな一人稽古をしているうちに、ブルースリーのやっていることは非常にインパクトがあり、自らの武道を立ち上げたいと考えるようになったのです。空手や少林寺拳法以外にワンパンチがほしいと思ったのですね。むろん、空手も少林寺拳法も指導は極めて忠実に受けていました。強くなったと思ったのは、中学二年の時のこと。母が再婚することになり、姓名が変わることにすごく葛藤があったのです。なおかつ、転校した中学校が有名な悪学校。家庭と外の芳しくない環境のもと、常に苛立ちを感じていました。そんなある日、掃除をやっている時にその学校を仕切っていた番長と副番長が因縁をつけてきたのです。精神的にも荒んでいたのでので、売り言葉に買い言葉で喧嘩を受けました」

体育館に来いと言われた山本はそのままついて行ったのだが、当時の彼の身長は170㎝あるかないか。一方の番長は大人の体つきで175㎝ぐらいあった。当時はタイマン文化というのがあり、番長と一対一で戦うことになったのである。勝負は殴り合い蹴り合いの末、相手から謝りが入った。そこで初めて「俺は強くなったんだ」と思ったらしい。以降、その番長とは親友に近い付き合いになり、山本は立場的に裏番長のような存在になっていた。違う意味で楽しい学校生活を送っていたのである。むろん、武道の稽古は続けており、少林寺拳法の大会で優勝。さらに、進学した高校にも部活で少林寺拳法があったので、こちらにも入部。大会にも出場し続け、一回だけ三位、それ以外は全て優勝という輝かしい実績を挙げるまでになった。

 

アクションもできる俳優を目指して上京。藤田まこととの出会い

ちなみに、母親が再婚した先は結構、土地も広くて家も広かった。山本はそこの養子ということになった。ところがある日、親族会議があり、再婚先の父親の父親が他界した時にいろいろな問題が出てきたのである。そして、その席上で母親が父方の親族から「財産目当てできたんだろう」と言われた。母親にとって、そんな気持ちは毛頭ない。人格をズタズタにされるような言葉である。しかし、義理の父親は庇ってくれなかった。それに怒りがわいた山本は父親にお茶を投げつけて、顔面を蹴り上げた。そして、その日の夜に荷物も持たず、母親と妹と一緒に家を飛び出したのである。

「母のすごいところはそれからしばらくして、建売の新築の家を買ったのです。電気も通っていなかった家で新しい生活が始まりました。義理の父の家を飛び出したこともあり、中学生活後半は楽しく過ごしていましたが、隣町の学校から喧嘩を売りにくることもあったのです。そんな事態に備えるためにも常に自らを鍛えていなければならないという緊張感がありました。そういう意味では余計に稽古に力が入りましたね。しかし、不良になるというのではなく、気持ちとしては清らか。でも、喧嘩のような場に直面すると、戦わざるをえなかったのです」

やがて、山本はそんな学生生活を送りながら、18歳の時に高校を中退して上京した。体を動かすことに自信があったのと、“何者かになりたい”と思っていたのである。当時はアクションもできる俳優になりたいと思い、劇団活動と自主映画を撮ったりする活動をしていたそうだ。生活収入はエキストラの事務所で働いていたので、それなりにあり、和歌山の母親に「こういう活躍をしているよ」と連絡をしたが、反応はいまいちであったらしい。その後、山本は体調を崩し、母親が上京してしばらく一緒に住むことになった。母親はスナックに勤務し、評判も良かった。そこで知り合った人が元スターで、その口添えで事務所に入ることになり、そこでつかんだのが藤田まことの斬られ役の仕事だった。

 

本格的な警護のテクニックを学ぶため、イスラエルに赴く

「それが藤田との最初の出会いで、一生懸命やっているところを認められ、可愛がってくれるようになりました。『次の仕事も声をかけるからな、予定空けといてや』と言われ、実際に次の仕事もやることになったのです。少林寺拳法には剛法(打撃)、柔法(投げ、関節)のほか、整法(体を整える。活殺自在といって、活の部分)をやってきたのですが、藤田の舞台に入ると、一カ月という長期間の仕事になるのです。時間のある時は、いつもその整法で藤田の身体を整えていました。

そんな付き合いをしいるうちにさらに可愛がられるようになり、食事や飲みに誘われるようになったのです。警護を始めることになったきっかけは、学生の頃、警察関係や裏社会の両方からスカウトがあったからです。個人的には警察に関心があったのですが、人を守ると言うことに意義を感じていて、ボディガードをやりたいと思うようになりました。どうせやるなら海外で本格的に訓練をしようと思ったのですね。最終的に選んだ国は“周りが全て敵国”というイスラエル。そのルートを持っている人がいたので、それを使ってイスラエルに入国して、専門部隊に入る前の部署に入ることができました。まずはイスラエルの徒手格闘術であるクラブマガを学び、銃火器、爆発物、専門的なオペレーションと専門知識と技能を受けました。そして一番、大事なメンタルについては、施設内に宿舎があるのですが、寝ている時に急に起こされたり、挙句に格闘術をさせられるなど、かなりタイトなしごきを受けました。そして意外と効いたのが、食事の後、座学をさせられたことです。睡魔がきつくて眠りたくて仕方なかったです。訓練のすべてがきつかったけれど、個人的には睡魔との戦いが一番きつかったです。印象に残ったのは卒業時に受けた『油断するな』の一言でした。やらなければやられる世界。そういう考え方を徹底的に叩き込まれました。しかし、そのまま日本では使えないので、警護である日本国内の資格を取得して、ボディガードとしての仕事を俳優業と並行して行っていたのです。それも藤田は知っていましてね、飲みに行ったりすると、著名人の名前を挙げて『この人はなぁ、●●さんのボディガードをやっているんやでぇ』と鼻高々だったことを覚えています」

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