今回のテーマについて書くのは、自分にとって、かなり大きな内容になる。だから、書くことは控えていたのだが、どうしても書きたくなったので自分なりの解釈を綴ることにする。
先月、トピックス記事でも紹介させていただいた大誠館主宰の宮崎さんと食事をする機会があった。そこでこの話が出たのである。
「武道って、自分たちにとってなんだろう」と。
いろいろ語り合いながらも、それは奥深過ぎて、結論は出なかった。しかし、宮崎さんは空手家として、何十年と修行されてきた方である。その間、様々な指導者としての出会いがあり、最終的に禅道会の小沢代表と出会い、「ここに自分の目指すものがあるのではないか」と、その稽古に励んでいる。その話を聞いて羨ましくなったものだ。
自分はというと、高校時代に伝統派の空手を学び、その後、キックボクサーになり、引退した後の八年間は広島でボクシングジムに通っていた。そしてまた、名古屋に戻ってからはキックボクシングのジムで後進の指導にあたってきた。そこでは四名のチャンピオン育成に関わってきたのだが、体調不良や情熱が希薄になるにつれ、それ以上、続ける気力がなくなってしまったのである。結果、数十年にわたる打撃格闘技の自分のライフワークは終焉してしまった。「もう、格闘技や武道に関わることはないだろう」と思っていたものである。
しかし、それから一年後ぐらいに氣空術と出会い、その主宰者である畑村会長のもとで合気の術を学ぶようになった。現在は仕事の事情などで休会しているが、そこで感じさせられることは数多くあった。そこで、改めて思ったのである。「武道とはなんだろう」と。
自分が持っている武道関連の本を開くと、そこには江戸時代以前からの戦闘技術である剣術や柔術、居合、薙刀、空手(当時は沖縄に古くから伝わる武術であり、空手とは呼ばれていなかった)を称して、武道であるということが記載されている。それらはいずれも戦うための技術であり、物騒なことを言うならば、対する相手の命を奪う殺人の術であった。やがて、それらの武術は明治以降、講道館をはじめとする転換期のもとで、武を目指し、極めるものとして、「武道」と呼ばれるようになった。さらにこれは明治以前の時代からであるが、戦闘技術のみならず、厳しい鍛練を通して、己の精神性を高めるものでもあったのだ。要するに、活殺自在の心身を目指すものが武術であったと思う。
それらの武術はやがて、武道となり、日本固有の文化的な要素を含めて己の肉体を鍛練すると同時に、精神性をも磨くものとなった。戦闘技術から、自己を磨くための道になったのである(と、思う)。古来より継承されてきた武道は名称こそ変わったものの、日本人の精神性を高める武の文化であったのだ。それは外国人からも畏敬の念で見られており、日本人の精神はある意味で、畏怖の思いで見られていたと思う。
以前のトピックス記事で古流の柔術と講道館柔道を学んでいた自分の祖父のことを書いたが、祖父はその時代にしては珍しく英語力も持ち合わせていた。そして、仕事上で交流のあったアメリカ人からこんなことを言われたそうだ。
「私は武道を日本ならではの素晴らしい文化だと思います。日本人が有する精神的な気質はその類まれなる武道に支えられたものではないでしょうか」
武道家でもあった祖父はその言葉に大きな感動を覚えたらしく、自分が小学校の頃から何度も同じ話を聞かされた。そしてこうも言っていたものだ。「武道は世界に誇れる、日本ならではのものだ」と。そして、大東亜戦争をも体験した祖父はこんな話もしてくれた。
「圧倒的に戦闘力の劣る日本(戦争における勝負条件のこと)は対戦国からも恐れられていたよ。玉砕覚悟で戦ってきた日本人の精神力がそう思われていたんだろうな。だから、戦後は学校教育からGHQの指令で廃止になった。それは武道を切り捨てることで、日本人の強靭な気質を骨抜きにしようとする占領政策でもあったんだ」
祖父の話は歴史的な事実にも記されている。当時、武道を根幹とした日本人の精神性、文化はそれだけ諸外国からも恐れられていたのだ。時代の変換と共に、そして日本国内の多くの武道家たちの努力と共によって、武道は復興する。そして、それらは改めて日本における歴史の中で培われてきた文化として、普及されるようになった。
話はそれてしまったが、武道とは我が心身の自然体と物事に動じない平常心を育むものだ。そしてその技術は心技体一致の境地になるのであろう。自分は到底、そこにまでは至っていないが、それこそが武道の目指すところだと思う。
ここで、以前、禅道会の小沢代表と話したことを思い出す。小沢代表自身、「武道とは何か」についてずっと、考え、探求してきた方である。そこには「武道で本当に心が強くなれるか」という問いが潜在的な意識の中の問いかけになっていた。そして、自分の心というのは自分で意識できる範囲内という思い込みを抱いていたのだが、実は膨大な無意識領域があることに気付いた。そこから湧き上がってくるものが当時の小沢代表の自分の悩みの本質だと気付いたのだ。そして、空手の稽古そのものは、それを省みるものだったということを確信したのである。それが何かと言うと、以前、この記事にも書いた「禅」であり、「姿勢と呼吸法」だったのだ。
今から書くことは小沢代表をことさら、持ち上げる話ではない。格闘家にしろ、武道家にしろ、猛練習をすることが自らの精神力を鍛えることだと思っている。しかし、ある時期から「そうではない」ことをおぼろげながら、感じるようになる。猛練習は確かに身体を強くし、心身一体の言葉にあるように心をも強くする。しかし、それによる心の強化はいつまで続くのだろう。人は誰もが老いていく。猛練習ができるのは、若き時の一時期だけだ。だからこそ、武道や格闘技をしている者は真剣にやればやるほど、「精神性とは何か?」に向き合うことになるのである。
小沢代表は打・投・極の総合格闘技空手の中で呼吸法や姿勢というものの重要性に気付き、武道の本質を探るようになった。そして、護身の本質についても襲撃者からの身を守る技術だけでなく、社会における様々な対人関係にも活かし、自身の人生をより豊かにするものとしてとらえるようになった。
その話を聞いた自分は、武道における精神性の向上はそこにあると思わされたものである。つまり、武道とは人間がこの世に生きていく叡智であり、生活術でもあると感じさせられたのだ。小沢代表の言葉をそのまま借りて言えば、「試合ということはそれのみではなく、日常の関係性、つまり人間関係の関わりも含めて、やっていくこと」なのである。武道における試合は真剣に人と関わる疑似体験。それを無意識領域から健在意識領域まで浮かび上がらせることによって、自分が他者とどのように関わり合うかを培っていく。それが武道なのではないだろうか。
この話は自分が学んでいる氣空術・畑村会長からも“心がいかに重要か”を何度も聞かされた。当時はそれを不明確にとらえていたのだが、小沢代表の話とそれがリンクされ、武道とは何かが頭では理解できるようになったのである。自分に関して言うならば、それはあくまで頭で理解しているだけである。日常生活に活きる知恵にまでは到底、及んでいない。しかし、これからの人生、いつかはそれを活かせるようになりたいと心から望んでいる。