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合気・最終章

連載してきた「合気」だが、それが実際の攻防に使えるかどうかは、自分の中でそれなりの結論が出ている。合気ができることと、強いこととは次元の違う話なのだ。では、合気が役に立たないかというと、決してそうではない。攻防の要所要所に使える身体操作はいくらでもあるのだ。つまり、合気を自分たちのやっている武道や格闘技の中の一つのツールにすればいいのだ。これは前にも書いたと思うが、実際に格闘技のトップクラスの選手が合気を学び、それを活かしているという事実も知っている。

だが、「身の程を知れよ」というケースもある。自称・達人とやらが総合格闘技の選手と立ち会って、あっさり、倒された動画を観て、「何を考えているんだ」と思ったことがある。合気の稽古では、仕手と受け手のある程度の協力がある。なおかつ、合気の稽古で単発のパンチを打ってくるような相手は試合ではいないのだ。約束稽古でそれができたからと言って、他の打撃武道・格闘技に通用するかと言ったら、大間違いである。このあたり、勘違いする人間(合気だけをやっていて、他の武道・格闘技を知らない人間)は結構いる。

自分がある合気の先生に対して、攻撃を仕掛け、何度も投げられている動画を一度、配信したことがある。その時、ある門下から「キックボクシングの●●さん(自分のこと)が先生には手も足も出なかった」とフェイスブックにシェアして、コメントをしたことがある。勘違いと妄想も大概にしてほしいものである。その時、自分はあくまでも「合気の技」を体感したかったからこそ、素直に投げられていたのだ。これが実際の真剣の攻防だったら、手も足も膝も肘も出る。
SMSは大勢の人の目に触れる。中には、それを見た格闘家の憤りを感じることだってあるだろう。だから、シェアした人間にはやんわりとそれを忠告した。すると、「申し訳ありませんでした」という返答の後に「それでも自分は打撃武道や格闘家を投げられるような合気の技を目指していきます」と書いてあった。まぁ、その気概はいいだろう。しかし、本当にその気持ちがあるなら、道場稽古だけでなく、実際にほかの打撃武道・格闘技をやっている人間と立ち会えばいいのだ。それなくして、「投げられるようになる」は妄想の範疇でしかない。

合気に関して、手厳しいことばかり書くようだが、もう一度、書いておく。合気という不思議な現象は実際にあるし、無意識のような身体操作で技が決まることもある。そして、それらの動きを実戦の中に通していくことも可能だと思っている。合気を揶揄しているわけではないことをどうか、ご理解いただきたい。こんなことを書いている自分だって、合気を実攻防に活かせるべく、稽古をしている身なのである。

一つの例を挙げておこう。自分が今、学んでいる氣空術では以前も書いたように、筋力ではない身体の使い方を重視して稽古をする。少しでも力が入ったら、技は効かない。格闘技でも「力むな」という注意はあるし、自分もそう伝えているが、それ以上に力を入れない動きを学ぶのだ。これは実際の打撃戦にも活きる。力まずに全身の体重を利用する打撃はヒットさえすれば、かなりの威力を発揮するのである。

実際、相手に動かずに立ってもらい、「ローキックを蹴るから耐えてみてくれ」と、ごく軽く蹴ると、それはもうかなりの衝撃で効くのである。しかし、それは相手が動かずに立ってくれていればの話だ。実攻防で動いている相手にはそうは簡単に効かせられるものではない。理由は自分も知らずうちに「力み」が動きの中に生じているからだ。だから、合気を応用するには約束稽古だけでなく、せめてライトコンタクトの組手なり、スパーなりをすることが技を活かせる身体操作につながると思っている。合気の技を行使するにあたって、「右のパンチを打ってきてくれ」という約束稽古だけでは、実戦にそれを応用することは極めて難しいというのが自論。中には、そうした稽古で達人技を体得されている方もいるかもしれない。しかし、自分程度の力量ではそうは簡単にできるものではないことをこの身をもって、痛感している。

先に書いた、「パンチを打ってきてくれ」という稽古をボクサーとしたことがある。その引きの速いスピーディーなジャブには全くかけることができなかった。ゆっくり打ってもらって、ようやく相手を崩せた程度である。稽古でできることが他でできないというケースはいくらでも経験しているのだ。だからこそ、自分なりの結論に至っているのだ。
例えば、前回、書いたアイキモードにしてもそう。稽古中、その現象になった相手に何度か打撃を放っていっても、それより早く出られて我が身が固まるかのごとく、投げられた。こういう時、その現象について理論的に説明することはできないが、どういうわけか。自分の動きがやたらと遅く感じるのである。
それでも執拗に打撃を仕掛けた。一発でも当たれば、チャンスはあると。そして、事実、そうなった。クリーンヒットしたパンチ一発で相手のアイキモードは抜けてしまったのだ。これは他の支部の同門の門下からも同じような話を聞かされた。「アイキモードになったとしても、道着の襟をつかんで強く引けば、合気は外せる」と。つまり、例え、アイキモードになったとしても、その呪縛のような状態からは脱却可能なのである。

以上をもって、合気について書くのはこれで終わりとする。だがしかし、どんなに強い格闘家であろうが、武道家であろうが、加齢していけば、当然ながら、スピードもパワーも落ちていく。そうした中で古来から伝わる日本の武道・武術のエッセンスを学ぼうとする人間が大勢いるのもまた、事実だ。その道の達人と呼ばれる方々に師事するケースも少なくはない。それを応用すべく、真摯に稽古に励む人もいる。

その一方でこんな話を聞いたこともある。ある打撃格闘技でチャンピオンになった人が引退後、様々な武道・武術の指導を受けた。ところがその人曰く「その中で、誰一人として、自分と真剣のスパーリングの相手をしてくれる人はいなかった」と。彼は武道・武術を決して、馬鹿にしているわけではない。「ここには何かある」と信じて、その技の奥義を求めようとしていたのだ。自分が心から尊敬するのはこういう人だ。机上の空論で武道・武術を語る自称、達人の話はいらない。それよりも、いかにそれを使えるようになるかという人を心から敬う気持ちになるのだ。身近なところでは、若き頃からフルコンタクト空手を学び、現在はある地域でトップクラスの指導にあたる炭粉さんもそうだ、氏は何度もここに書いてきたように、合気の驚くべき現象と身体操作を身体で体験して以来、合気を探求し続けている。そして、自身も「零式」という合気を生み出しているのである。その炭粉さんをしてこう言うのだ。

「実際の打撃戦の場数をこなしてきた人間でなければ、合気は使えない。使えるとしてもそれは、その場の稽古だけでできるものでしかない。だからこそ、組手もありきなのだ」と。非常に明確で分かりやすい話である。打撃のみならず、組み技系、あるいは総合格闘技をやってきた人間なら、その技の怖さも十分に知っている。その対処も熟知している。そのうえでの合気なり、古来か伝承される武術の技である。それなくして、「体得している」ことと、「稽古でできる」ことは大きな隔たりがあることを思うのである。

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