多くの合気系武術に共通して見られるキーワードがある。それは「圧と結び(合気)」である。
圧が強すぎれば、受ける側の筋肉に反射神経させてしまうから、かける側の「やってやろう」という意識は簡単に反応されてしまう。受け手のその思惑を見透かし、防御態勢を準備するので、これでは合気などかけられない。
その一方で圧が弱すぎれば、単なる腑抜けの技となってしまい、結びが生じる事は無い。これこまた合気ができる現象にならないのだ。
合気の技術の第一歩は、適正な圧と結びを生み出す事にある。これは一朝一夕にできるものではない。幾度も自らの身体で合気を感じ、受け、絶妙と言うべき感覚を手にした者のみが、ようやく体得できるのである。氣空術では、その境地を「腕の道具化」、「皮膚接触」と呼び、約束組手を通して自然に体得を目指す稽古内容をとっている。
結びが出来れば、次に必要となるのが「質量の伝達」である。仕手側が圧をかけた直後、両者が動かなければ、何も起こらない。当たり前の話である。自然に圧をかけた部位の結びが外れてしまうか、若しくはそのまま結びだけが維持される。したがって、仕手側は自ら動かねばならないし、受けを動かさねばならない。多くの合気系武術では、質量の伝達の仕方と動き方に独自の工夫を凝らしている様である。その具体的な例を幾つか挙げてみよう。
炭粉良三氏の一連の合気シリーズに登場する「関東式合気」では、接触部の圧に対し、受けが想像もしていない場所から発力をする。受けは意外な場所から伝わってくる力に、防御が間に合わなくなり、結局崩れてしまう。
また、某有名なフルコンタクト空手流派では、質量の伝達の方法として体重(重力)を直接利用する。骨盤の落下を利用して重力自体を武器として使うと言うのだ。
これらの技法に類似する身体操作は、一部の合気道でも多用されている。
例えば入身転換での合気技がこれに当たる。圧の生じた接触点に対し、一気に仕手の重力を乗せる。重力は何も体重だけではなく、大地からの力をそのまま結びが出来ている箇所にかけるのだ。受けは想定以上の衝撃を受けてしまう為、残留する身体の力を防御に利用しようと試みるのだが、どうしても間に合わない。圧点からじわりと伝達してくる質量は、受けに対して常に力をかけ続け、相手の動きを封じてしまう。
これを合気道では「制す」と表現する。
さらに、相手に握られた手首を支点として、推進力(臂力)を一点に集中させる技法もある。実戦的な柔術技を多用する流派では、そこに関節技を併用する。これをやられると、手首に合気をかけられたにも関わらず、首の後ろに衝撃が走る事となる。ダメージもそこそこ大きく機先を制するには有効な技と位置づけされている。
これまで幾つかの具体例を挙げながら、「質量の伝達」について述べてきたが、これらはあくまでも技術である。技術故にやり方を理解し、反復して覚える事で誰にでも同様の結果が出せるようになるだろう。但し、多くの合気系武術の基礎として訓練される「合気上げ」(合気道では呼吸法)では、合気合掌や、円転の技術、ベクトルずらし等の様々な応用技術が存在しているが、これらは圧と結びには余り関係が無い為ここでは割愛する。
合気を発動させるうえで重要なのは、受けの脳を騙す(「Refractory period」脳の空白期間を言う)技術である。つまり、反射による防御を目醒めさせない技術なのだ。受けが何をされたのか理解できない状態を作り出せなければ、やはり、合気とは呼びたくないのが心情だ。
しかしながら、氣空術では質量の伝達に体重の行使は行わない。相手が気付かないレベルの微力を、ある法則に従って発力するだけでよい。それを氣空術では「同時二方向」、「二触法」、「皮膚接触」と呼んでいるが、これらの基本技は誰でも習得ができるようにシステム化されている。
気空術における質量の伝達手段は他の合気武道と一見類似している様に見えるが、実は全く異なるものだと思っている。因みに氣空術の合気をかけられると、どうして自分が投げられたのか、また、倒されたのかが全く分からない。また、何故か腹の底から笑いがこみ上がってきてしまうのだ。衝撃は凄いのだが、痛みやダメージは全く無い。おまけに、段々倒される事が快感に思えてくるのだから手が付けられない。このあたりは、他の武術にはない不思議な体感である。
氣空術の技は、合気の深淵を悟った畑村会長が、誰人にも体験できるよう自身の合気を術レベルにまで落とし込んだものである。その再現性は非常に高く、稽古法も簡易だ。ただし、多くの門弟がその技術を体験はできるものの、真に体得する事は容易ではない。
なぜなら、受けは常に同じ人間ではない。ましてや実戦ともなればなおさらである。誰とも知らぬ相手を目の前にして、瞬時に身体の重心や傾きを理解し、相手に気づかれない様に(反射を起こさせないように)に合気をかけねばならないのだ。
共に稽古をする既知の人間には技はかかりやすい。それは相手も合気の感度を高めて、自らもその感覚を得ようとしていることも理由になる。畑村会長は我々、門下にとっては達人の域である(本人は謙遜して、『自分はまだまだといわれるが…』)。
いずれにしても、これらの技を自在に行使できるようになるには、日常のたゆまぬ鍛錬が必要不可欠である。これは氣空術に限らない。武道の奥深さを探求するには、鍛練・修練なくして体得できるものは、どの武道・武術においても同様だと思うのである。
例えば、氣空術の皮膚接触。
支部の稽古でこんなことがあった。ある人と基本の「くっつく掌」をやっていた時のことだ。すると、近くに寄ってきた会長が「それよりも上級レベルをやってみようか」と言われた。自分が両掌を前に出す。そこに会長が掌ではなく、手の甲側をつけた。
すると、あたかも接着剤でもつけたかのようなピターッという粘着感がきた。それを「ホイッ」と腕を振られた途端、いとも簡単に崩された。
ちなみにこういう現象、弟子が師を尊敬するあまり、暗示的作用でかかりやすいというのも知っている。だから、二回目にやった時は意識的に「崩されまい」としていたのだが、会長の手の甲が触れた途端にやはり、くっつき感が半端なく、そのまま横に移動されたら、「おっとっと…」と、つられるかのようにひっぱられた。
なおかつ、もっと驚いたのはそのまま停止した時、何と、自分の掌が離れない!「離せばいいんだ」と思って、離そうとしても離れないのだ。
こんなことってあるかと、驚愕しながらも冷静に考えた。合気がかかるのは0,2秒。これが一体、いつまでくっついているのかと数えたら、6秒近く離れなかった。
これには本当に驚かされた。技をかけられて手が離れないというのは何度か体験している。しかし、単に掌と甲をつけた状態で離そうにも離れない現象があるとは…!
愕然としながら、「なんでこうなるんですか」と聞いたら、自分が「無意識に押しているから」と言われた。自分では押しているつもりはこれっぽっちもない。
この時の現象の理論はこうだ。会長は手の甲で自分の掌にかすかな圧をかける。それに対して、自分は無意識のうちに反応して、掌を押そうとしてしまう。ここで合気がかかる。こちらは無意識でやっているから、それが分からず、離そうにも離れないという状況になるわけである。