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合気の章⑨

今まで、合気は無意識のなせる技と書いてきた。例えば、武道・格闘技経験者なら一度は体験しているはずである。何気なく出した打撃で相手をノックアウトした、何気ない投げが見事に決まったなど…。実攻防でこのような無意識の技が出ることはままある。そういうレベルまで達していくために、何百回、何千回と自身の技を繰り返し、鍛錬していくのだ。だから、合気も週に数回程度の稽古で会得できるものではない。稽古でできたとしても、それが他で通用すると思ったら、それは妄想の範疇だ。

それともう一つ、大切なことを書いておく。合気とは一体、何かである。それは神秘な現象でもなんでもない。リフラクトリー・ピリオド(脳の空白時間)つまり、相手に予想外の事が起こることで、脳の活動が瞬間的に止まるのだ。氣空術ではそれを成立させるために相手の身体の異なる方向へ同時にかける二方向の技、相手の触れた個所に強弱を分けてかける二触法という技がある。人間は一方向への動きには脳が判断して、耐えることができるが、それを二つの方向へ瞬時にかけられると、脳の判断が遅れる。つまり、ここでリフラクトリー・ピリオドという、脳の空白時間が起こるのだ。炭粉さんも言われる。
「合気は相手の脳にねつ造を起こす技だ」と。そしてこうも言われた。

「もう経験した事あると思うけど、合気がうまく表現出来ている時は、対立している部分の『対立』はそのままに、身体の他の部分の大きな『協調』が現れる。そして部分的な対立はあくまでそのままで、しかし相手は投げられてしまう。『あれ?』…そしてその後、何故か「笑い」。大切な瞬間です」。

抵抗感なく、投げられ、崩されるから、こちらも反発する意識が起きないのだ。そして、それらを成立させるための氣空術におけるもう一つの基本がこの「腕の道具化」である。合気を生むために、相手に触れた「圧」の具合と場所を変えずに、自分の腕を動かす重要ポイントだ。すると、氣空術の技が成立するのだが、会長の自著「謎の空手・氣空術」にはこう書いてある。

腕を動かすときに自分の腕とは別のところから動かさなければならない。「腕を使うに、腕を使わず」すなわち、自分の腕をあたかも自分の体の一部ではない、何か別の道具のごとくに動かすのです。(中略)。たとえば、我々が木刀で何かを叩こうとするとき、当然、腕が木刀を動かすわけですが、木刀そのものには神経も何も通っていません。つまり、木刀に「意思」はないわけです。このように、自分の腕を木刀レベルにまで道具化することを目指して、稽古を続けなければなりません。ただ、その道具化した腕をいったい、身体のどこから動かすのかについては、おそらく人それぞれの感覚によって異なってくると思います。いずれにしても、修練して自得するしかありません。

この腕の道具化、できるまでに苦労した。いや、今も決してパーフェクトにできるわけではないのだが、初めの頃は道具化しようとすると、力が入る。抜こうとすれば、腑抜けになる。一体、どうすればいいんだと悩んでいた頃、二方向の稽古中に「これか!」というのを感じた。そして、その場ではそこそこに氣空術の技ができた。

ところがしかし、いざ、それを自主稽古でやろうとすると、まるっきりできない。できない理由が分からないから、進歩もない。ならば…と考えたのが日常生活の中で「腕の道具化」を意識すること。ドアを開ける時も指をかけて、腕だけで引いたりするのではなく、腕を固めた状態で身体の別の部分を支点に引いたり、開けたりする。人間、無意識でやっていることはふだんの生活の中でいくらでもある。
箸を使うのも自転車に乗るのも「こう、使おう」と考えてやっているわけじゃない。無意識でやっている。だから、無意識レベルでできるようにと、「腕の道具化」に努めた。地道な繰り返しは武道・武術の稽古ではあたりまえのことだが、継続すると、次第にその感覚が身についてくるものだ。数か月のうちに、道具化した腕を「どこから使うか」が少しずつ分かるようになった。
初歩的なことだが、技としてもできるようにもなった。ちなみにこの腕の道具化、「肩から手首にかけて針金が通っているイメージでやるといいよ」と、会長からのアドバイス。針金は細くて柔らかい。腕を動かそうとする時に、この針金を通す感じでやると、使うのはほんの少しの力でいいことが分かる。たとえば、両手で構える時も針金を通すイメージを持つと、手は十のうち一か二ぐらいの力で上げておけばいいのだ。格闘技の試合中、よくセコンドから「力むな、肩の力を抜け」と指示があるが、氣空術でも何らかの技を行使しようとする際、ついつい肩に力が入るケースが多々、見受けられる。肩に余計な力が入ってはいけない。一か二ぐらいの力で上げた腕に針金を通したイメージで道具のように使う。それが結果的に微妙な圧と合気をかけることにつながるのだ。

しかしながら、難易度は高い。先に述べた二触法にしろ、異なる方向に二つの動きをかける二方向にしろ、使うのは自らの腕。それで「何とかしよう」と思った時点で、どうしても筋力が生じる。そうなると、途端に合気技はかからなくなる。何とか、この腕の道具化を体得できないものかと、自主稽古で様々なことを試してみた。たとえば、自分の腕を構えた相手の腕の上に置く。腕だけで崩そうとすると、力が入ってしまうから崩れない。力を入れまいとすると、腑抜けになるからこれも駄目。試行錯誤するうちに、「腕はあくまでも道具。それを使うのが身体のこの部分から」と思いながらやったところ、崩すことができた。稽古相手にも同じことをするよう伝えたら、やはり、崩される。自分は何らかの氣空術の技ができると、動画を撮って会長に見てもらっているが、「それでいいよ。皮膚接触と重みは下の融合になっているね。腕の道具化とはそういうこと」という回答をいただいた。

今のところ、これができるという確率は少しずつ上がってきた。様々な人に「氣空術の身体の使い方」を説明する際は、これを体験してもらっている。ただし、それなりにできつつあるとはいえ、「崩してやろう」という気持ちがしゃしゃり出てくると、その時点でできない。氣空術、「やってやろう」は最大のタブーなのだ。このあたりに、前回でも述べた心の有り様が大きなウエイトを占めてくる。武術・武道の世界では「居着き」にならないことを重視されるから、身体だけでなく、心も止めてはならない。人は何らかの事態に直面すると、その部分に意識を向けたままの停滞状態になる。「どうしよう」「なんで、こんなことが起きるんだろう」…不安や緊張をはじめとする、さまざまな感情がそこで生じてくる。問題に対する執着になるのだ。こうなると、ネガティブスパイラルにはまる。結果、心身共に大きなストレスを抱えてしまう。だからこそ、「心をも動かし続ける」。

技をかけるにあたって止まらずに、動き続けること、それは非常に難しい。ただ、このような稽古を通して、それなりに得られる感覚もあった。氣空術のもう一つの原則である「力は入れずに出す!」ことだ。力を入れないは単に脱力すればいいというものではない。それでは腑抜けになる。ただ、その中間地点のとらえ方がなかなかつかめない。しかし、「力を入れている状態とは何か」については分かるようになってきた。これは簡単。技をかけることに固執するあまり、前腕なり、肩に力みが生じている。力まないことについては、格闘技時代から散々、やってきたつもりだが、氣空術ではそれ以上に「力を入れない」を追求する。力は出すものであって、入れるものではないのだ。力は相手に伝えなければならない。そのためにも心と身体を動かし続けるが重要視されているのである。

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