今回、紹介するのは日本でも珍しい神社での空手道場を有する、禅道会・世田谷の中島道場長である(以下、敬称略)。神社と武道、個人的にマッチする組み合わせと思うが、いかにも健全な青少年の指導が行われそうなイメージがある。その長として空手指導を行う中島は1974年の5月生まれ。世田谷区の出身で少年時代はどちらかというと、落ち着きがなく、運動が好きなタイプだったそうだ。外で遊ぶことが大好きで、自然の中を駆け回っているような子どもだった。
その中島が幼稚園児であるにもかかわらず、友だちが学んでいた柔道に興味を惹かれ、港区のスポーツセンターの武道場で行われていた柔道場に入門した。これが思いのほか長く続いて、幼稚園から小学校6年生まで通い、第一回講道館少年柔道大会に出場したこともあるそうだ。当時を振り返って、こんな話をしてくれた。
「先生の教え方は厳しさの中にも優しさがあり、技を指導する時に『この技はこうやってかけるんだぞ』と教えてくれ、巧くかかったりすると、『そうだ!』と思いっきり倒れて褒めてくれました。それが子ども心に嬉しさとやる気につながったと思います。中学生になってからは遠方の学校に通っていたため、柔道から離れてしまいましたが…。少年向けの柔道のようなかたちだったので、みんな六年生まで通うという感じでした」
スポーツ好きだった中島は中学はバスケット部に入り、高校では陸上部に入部して短距離をやっていた。
「代々木の体育館で練習試合をした時は会場の大きさに感動したことを覚えています。陸上部は100メートルをしていたのですが、予選大会の時に東京都の代表選手が隣に来て、一緒に走ったのです。そのスピードが桁違いでした。圧倒的な差をつけられて『世の中にこんなに速い人がいるんだ』と感動したことを覚えています」
ちなみに、今も趣味の一つになっているスキーは小学校三年生からやっていた。21歳の時にスキーペンションに宿泊し、モーグルスキーを住み込みでやっていたと言うから、かなりの熱中ぶりである。その当時、スキー上達のためにいろいろなスポーツジムにも通っていたが、なかなか続かなかったそうだ。
「斜面のこぶをうまく滑れないのに苦戦していて体力作りがいつも頭にあった」と言うから、それだけ熱中していたのであろう。仕事は商社の情報管理システム部に勤務していたが、30になる前にダーツのディーラー兼ショップ経営をする会社に転職した。
「その頃、六本木のジャズカフェロンドンというバーに行ったのですが、そこのオーナーが親父バトルという格闘技の大会に参戦したのです。その話を聞いて、40歳近い年齢で出場するのがすごいと思いました。モーグルスキーのための体力づくりをしていた自分ですが、ここで改めて、武道をやりたいという気持ちになったのです」
ちなみにそのオーナーが通っていたのが禅道会であり、中島はその流れから禅道会の体験稽古に行った。そこで出会ったのがジャズカフェロンドンの店長でもあった西川先生道場長だった。この時、中島は32歳。ここで第二の武道人生が始まったのである。
禅道会は打撃以外にも投げ・締めなどの技が多彩な格闘空手である。「稽古はきつかったでしょうか?」という質問にこんな答えが返ってきた。
「かなり、きつかったです。最初の頃は稽古途中で休んだりすることもありました。打撃のみの稽古の日、寝技のみの稽古の日と分けられていたのですが、特に寝技稽古の時は多彩なメニューがあり、相手と組み合って練習するのがつらかったですね。でも、そういうしんどさも『稽古仲間と共にやればできるようになる』という気持ちが自分を支えていました」
そう思いながら、稽古に明け暮れているある日、西川道場長から「試合があるから出てみては」と言われ、何も考えずに出場することになった。その時にこんな逸話がある。
「試合に出るのにルールや防具があるが、全然、それを教えてもらわなかったのです。自分も詳しく聞くこともありませんでした。そして、試合当日になって、『どうやるんですか』と聞いたら、スーパーセーフとファウルカップ、拳サポーターを渡され、『これを着けて出てください』と言われたのです。ルールも知らなかったので確認したら、『とにかく“殴る、蹴る”をすればいいから』と言われました。今にして思えば、笑い話のようなものですが、そんなルールで二分半も試合するのかと思いました。それでも、自分の試合の前に他の人の試合を観ればなんとかなるかと思っていたのです。ところが、その第一試合で自分の名前を呼ばれて面食らうことばかり。いきなり殴り合う試合内容でした。それでも第一試合は何とか勝つことができました。嬉しいというより、『勝ったんだ』という感じ。第二試合はフルに攻撃しているうちに酸欠で体が動かなくなり、判定負け。閉会式まで頭痛で倒れていました」
それでも後悔はなかったと中島は語る。全力を出せたという気持ちの方が強かったのだ。そして、「試合そのものが発散になった」とも語った。そう話すには理由があったのである。中島は複雑な家庭環境で、子ども時代からストレスを抱えていたのである。それを解消できたのが試合だったのだ。
「少年期は人を客観的に見る性格だったのですこの人は何を考えているんだろう、どう思っているんだろうという感じで。物事に関してもどうしてこうなるか、なんでそうなるかを考えるタイプでした。だから、周りと調和できなかったんです。虐められもしたし、虐めもしました。幼少期からフラストレーションを抱えている子どもでした。ところが、それらのすべてを大会で全力を出し切って、発散できたことはとてもいい体験になりました」
そんな中島の試合実績は以下の通り。
2007年 関東地区交流試合 青年の部 優勝
2008年 関東地区交流試合 青年の部 優勝
2009年 関東地区交流試合 アクセスの部 準優勝
2010年 フィリピン極真無差別級チャンピオンと対戦
2010年 バーリトゥードリアルファイティング全日本予選出場
2013年 バーリトゥードリアルファイティング全日本青年の部準優勝
年齢的にも、そろそろ、引退かと思っていたのだが、本人にその気はないらしい。
「まだ、初段なので二段になるため、試合に出場して優勝を目指したいです。今も若手選手たちとスパーリングをしています。やれる限りはできるだけ、続けていきたい」
現在は禅道会の職員として勤務。横浜事務所副所長として、横浜道場の事務・運営業務をも担っている中島だが、三十代半ばに体調が芳しくなくなり、仕事が続かなくなった時期があった。それがしばらく続いて、心療内科に行ったところ、「鬱病の気がある」と言われたのだ。これが風邪などの軽い病気なら、安静にして栄養に気を使っていれば改善できる。しかし、鬱病はそうはいかない。何とかしたいけど、どうにもならないという状態に気落ちさせられたそうだ。
「担当の医師からも精神的な問題はすぐには解決できないと言われました。カウンセリングもあったのですが、それが二か月待ち。これには本当に悩まされました。どうにもならなかったので、西川先生や小沢先生にも相談しました。すると、『フィリピンに行って、リセットしたらどうだ』と言われたのです。フィリピンの責任者である日下先生を紹介してもらい、そこでゆっくり過ごせたら快方に向かうのではないかと思いました。最終的に会社も辞め、肩書も何もかも全て捨てて、フィリピンへ行きました」