今回、紹介するのは19歳の若手のホープ、谷村泰嘉だ。兵庫県出身の彼は親が阪神タイガースのファンで、本人も幼少期から将来は野球選手になろうと思っていた。その意気込みも本格的で四歳ぐらいからリトルリーグのチーム入っていたそうだ。中学になってからは、ピッチャーとサード、外野をやっていたと言うから、親の勧めもあったとはいえ、好きで夢中になってやっていたのであろう。チームの練習が主であったため、学校の部活には入らなかったそうだ。まさに、熱血の野球少年である。その谷村が当時を振り返って、こんなことを語ってくれた。
「年齢は覚えていませんが、かっこいい先輩がいて、その人とキャッチボールをするのが楽しかったです。途中、引っ越しもあったので一つのチームだけでなく、いくつかのチームに通っていました。家族からも将来は阪神タイガースで活躍してくれと期待されていたし、自分もそのつもりでした。それぐらい野球が好きだったんです」
スポーツはもともと好きで、野球以外でも運動全般にわたって得意だったと言うから、身体能力も運動センスも良いのだろう。部活には入らなかったものの、学校の運動会、体育祭では毎回、活躍していたそうだ(ちなみに、格闘技道場入門も野球とほぼ同時期の入門だったが、この話は後述する)。そこまで熱心にやっていた野球だが、辞めてしまったのは理由がある。中学の頃から「自分にはセンスがない」と思うようになったのだ。父親に野球の指導をされても、思うようにできず、次第に熱が冷めていったのである。しかし、リトルリーグは道具とかユニフォーム代など、かなり高かったらしい。それを思うと、子ども心に簡単に辞めると言えなかったそうだ。続けている間は元プロの人にも教えてもらいもしたが、上達できなかった。そして、辞めようという気持ちの一方で最初の夢である阪神タイガースに行きたい気持ちも捨てられなかった。そのような気持ちの紆余曲折あって、野球は中学の三年までやっていたのである。
話を野球から禅道会に移そう。谷村は親の勧めで幼少期から野球だけでなくフルコンタクト空手の道場でも三年間、稽古をしていた。禅道会に入ったきっかけは当時、放映されていたSP 警視庁警備部警護課第四係というドラマがあり、それを見て総合格闘技をやりたいと思ったそうだ。そして、小学校三年生で禅道会の富士見道場に入門。野球もやっていて、運動神経にも恵まれているから上達も早かったのでは?という問いかけに、「それまで学んでいた空手が打撃技だけだったので、寝技と組み技で勝てないのが悔しかった」という答えが返ってきた。
「稽古は打撃の日、組み技の日と分かれて指導が行われていました。指導してくれたのは相星先生です。教え方は厳しいながらも熱心で丁寧で子どもながらに分かりやすかったです。初めは苦手だった寝技・組み技も練習を重ねるうちにできるようになりました」
結果として、できるようになってからは自信もついて、戦い方も変わってきた。打撃で攻めて、組まれてきたら投げ返すというパターンを身につけることができたのである。総合格闘技として禅道会、戦い方のパターンは組手の相手や状況に応じて、多彩であることの方が強いと思われる。どのような局面でも自分のペースに持ち込む方が有利だからだ。谷村は少年でありながらも、そのような状況に応じての戦いぶりをマスターできるようになったのだ。
「禅道会の少年部の大会にも出場しましたが、ほぼ、負けたことはなかったです。ただ、一人、黒帯のライバルの子がいて、その子には三連敗しました。打撃ではなく、組んで投げてくるタイプだったのでやりづらかったですね」
ちなみに、谷村は中学生の時からパラエストラ大阪という総合格闘技のジムにも禅道会と並行して通っていた(高校二年生でパンクラスにプロデビューしたが、その話は後述)。その後、高校を卒業してから柔道整復師の資格を取得するために上京して専門学校に進学する。その流れから禅道会は横浜支部に、総合格闘技のジムはパラエストラ八王子に移った。柔道整復師の専門学校に入ったのも父親の勧めであるらしいが、本人の将来的なビジョンもある。一つは練習をしていくうえで、体のメンテナンスの必要性を肌で感じこと。その知識と技術を体得したかったこと、それをもって自分だけでなく、同じようにアスリートの道を歩む人への実際的な支援ができたらという思いもあった。現在、パンクラスのプロ選手としてリングに上がる谷村だが、初めはプロでやるとは考えていなかったらしい。「好きだけど、そこまでは頭になかった」と言う。そのきっかけになったのは、高校一年生の時にパンクラスのアマチュア大会に出場したこと。フライ級で準優勝した彼に「プロでやってみないか?」というオファーがきたのである。だが、その時はやっていける自信がなく、断るつもりでいたらしい。しかし、その話を父親に相談したところ、行けるから大丈夫だと言われてオファーを受けたそうだ。そして、高校二年生の17歳でデビュー。ここで話を戻そう。高校を卒業した谷村は東京で柔道整復師の専門学校に通いながら、プロ選手として活躍することになった。
2020年 第26回ネオブラッド・トーナメント一回戦
2月 楠美貴嗣選手 フロントチョークで勝利
第26回ネオブラッド・トーナメント準決勝
9月 大貴選手 判定勝ち
第26回ネオブラッドトーナメント決勝
12月 山北渓人選手 判定負け
2021年
10月 井島裕選手 判定勝ち
2022年
5月 大塚智貴選手 フロントチョークで勝利
12月に出場する予定だったが、試合が流れてしまったので、来年の2023年3月に試合予定。
試合をこなすにつれ、選手は経験を積んでいく。谷村に気持ちに残る試合は何かと訊ねたところ、こんな答えが返ってきた。
「プロになって三戦目の試合が悔しい思い出として残っています。対戦相手とはとアマチュア時代に二試合やっているのですが、勝てませんでした。だから、三度目の正直で挑んだのです。試合が始まって打撃で一回、倒したのですがタックルで反撃され、組み技・寝技に持って行かれてしまいました。自分のパターンに持っていけず、そのまま劣勢になって判定負けです。自分なりに直さないといけないところは全部、直したいと痛感させられた試合でした」
試合に負けはしても、反省を糧にこれからにつなげていく。それが谷村の考えだ。「筋力的にもスピード的にももっとつけて、階級を上げても戦えるようにスキルアップ・体力アップをしていきたい」という気持ちを抱きながら、日々の練習に励む。
「全体的にレベルアップしたいです。得意の技を持つことも大切ですが、今は何かに偏ることなくトータルに強化を図っていきたいですね」
格闘技に対して、真摯な気持ちを抱きながら練習に取り組む谷村。そんな彼の目標は…
「将来はUFCという世界最高峰の団体でベルトを取ることです。そのためにも一戦一戦を勝ち抜いていきたいです。そして、これはまだ先の話ですが、引退した後は接骨院を併設した格闘技ジムを作りたいと思っています。フィジカルを鍛えることも大切ですが、体のメンテナンスもアスリートには大切。だから、その技術を身につけて、自分と同じような目標を抱く方に頼られる仕事をしようと思っています。今現在、禅道会横浜支部では週一で指導にも携わっています。将来的には技術的な指導もする一方で、体をいかにベストにするかも伝えられるようになりたい。ですから、その専門知識や技術も身につけたいというのが自分の目標です」
現役中にタイトルを獲得して、さらに自分の道場を持ちながら、接骨院も経営する。描く将来ビジョンは必ず、谷村のものになりそうだ。