入会のご案内
トピックス

トピックス

空手道 禅道会 小沢 隆 代表の武道人生①

初めにお断りしておくが、自分は禅道会を学んでいる者ではない。小沢代表と個人的なお付き合いがあるだけだ。このトピックスは自分が経験したり、関わってきたり、武道や格闘技に関する思いを連載で綴ってきたが、それをするにつれ、禅道会代表の小沢個人(以下、敬称略)にも少なからぬ関心を抱くようになった。

ホームページにも書いてあることなので、重複するが、禅道会は1999年1月、真の護身武道の追求と青少年の健全育成を目的に設立された。他の空手(特にフルコンタクトルールの空手)が顔面なしの直接打撃制のルールが採用され、稽古法もそれに沿って行われているのに対し、禅道会では「あらゆる局面に対応できるような武道」を目指し、空手の打撃技のみならず、投げ技、関節技なども習得できるように競技化されている。こういう部分に目を向けると、空手というより、総合格闘技という面の方が強いように感じるのだが、基本ベースはあくまでも空手なのである。

過当競争の空手組織運営の中で世界に広まる禅道会

空手関係者、あるいはその道場経営に関わっている方なら、直面している問題と思うが、その運営は一時期のブームが過ぎ去って、低迷しているのが現状である。中には、道場経営から撤退している流派もあると聞いている。その理由は昔と比べて、空手の道場が多すぎるのである。自分が住んでいる地域を例にとっても、空手の道場が数件ある。それだけ、競合する道場があるということだ。こういう状態を見ても、空手道場の経営は組織が大きくなればなるほど厳しいと思うのだが、禅道会はここでも異彩を放っている。

本部の拠点は長野県。国内では北海道、東北、中部、関東、東海、関西、中国、九州に道場を有し、海外には東南アジア5か国、中東諸国、ヨーロッパ8か国、アフリカ諸国、南米諸国 、タイ・フィリピン・台湾・香港・スリランカ・イラン・フランス・フィンランド・イギリス・チェコ・スイス・ドイツ・ウクライナ・ロシア・モロッコ・ブラジルにまで手広く支部道場を設置し、まさにグローバルな運営を成し遂げているのである。それができるだけの理由にも興味があるが、まずは禅道会の代表である小沢本人にスポットライトを当ててみた。

孤独感、恐怖感を抱いていた少年期

小沢が生まれたのは、昭和36年の1月20日。一人っ子である。異母兄弟はいると聞いているが、会ったことはないそうだ。複雑な家庭事情だったようで、両親は小沢が小学校一年になった頃に離婚している。その後、母に引き取られ、夜は母の妹の従妹と夜は二人で過ごしていた。当時で言う、かぎっ子だったのである。

その小沢がこんなことを言った。「あの頃のテレビは真空管だったんですね。だから、テレビが切れるまで2・3分かかる。その最後にテレビを切った時の画像を見る時のイメージは「死」だったんです。どんな生き方をしていても、人間には必ず死が訪れる。それが頭の中にこびりつき、恐怖心に近い孤独感がずっと、あったんです」

生きることに対する無意味感がいつも心の中にあるように感覚を持っていた小沢。だから、何事に対しても積極的にはなれず、縁側で日向ぼっこをしていると、それが永遠に続けばいいなと思うような、子どもらしくない子どもだったそうだ。小沢の言葉を借りて言えば、「内的不確実感」を抱え込んだような子どもだったのである。

普通の子どもとはかなり違っていた少年時代

少年時代の小沢が住んでいる街には天竜川という川が流れている。そして、その対岸が丘陵地帯になっていた。学校の授業を受けていてもつまらなかった小沢はその景色を眺めていると、その向こう側には「神々に守られた安寧な場があるんじゃないか」という桃源郷妄想を抱いていた。そんなことをいつも授業中にぼんやりと考えていたそうだ。

それだけ、普通の子どもとはかなり違っていたのである。友だちも少なかったのではないかというこちらの質問に、小沢は「友だちはいないことはなかった」と答えた。当時、住んでいたアパートには風呂がないため、気の合う友だちと銭湯に行っていたと言う。いつもと同じところでなく、他の銭湯に行くのも楽しみの一つだったのだ。

その地域一帯は娼婦街であり、猥雑な遊郭があって、そんな環境に癒されてもいたそうだ。ちなみに両親が離婚する前は父の兄弟が三人兄弟でその三世帯が一緒に住んでいた。

部屋のすだれをのぞくと、入れ墨の入った大人たちが丁半博打をやったり、白粉をつけたよう女性がいたり、そんな人ばかりがいた。そんな街だから、飲み屋も多かった。さらに、当時は今では珍しい女中という住み込みの人もいた。そんな生活環境だったのである。 「その中では、街全体が喜悲劇みたいな雰囲気で、それが懐かしい思い出として心に残っている。でも、不思議とその感じにそれが癒されていたんですね」と小沢。

その一方で、真空管のテレビが消える時のような孤独感、恐怖感は依然として頭から離れることがなかった。

そんな中で、小沢は母に育てられた。父親は博打が好きで、ほぼ家にいなくて遊び歩いている人だったと言う。一円も家に入れてくれなかったため、その環境に嫁いできた母は妹と二人で水商売を始めた。その後、両親が離婚。自分も従妹も母子家庭になった。

結果、かぎっ子になって、母の帰りを待っているのだが、テレビ放映が終わる時の孤独感はいつも小沢の心から離れなかった。「どんな人生を歩んでも、最終的には宇宙空間に放り出される死がある」と思っていたと語る小沢。友達と遊ぶ普通の少年ではあったけれど、常にそんなことを思っていると同時に桃源郷妄想を抱く少年でもあったのだ。

空手の道場に通うことになったきっかけは…

そんな小沢が空手と出会ったのは、中学三年の時、犬(シェパード)を飼育していたことがきっかけであった。たまたま、ペットショップに行った時に、そのオーナーの知人に空手の先生がいたのである。小沢の世代なら、劇画の「空手ばか一代」やブルースリーの「燃えよドラゴン」で空手を始めた人が多かったと思う。

しかし、当時の小沢は心の恐怖心・孤独感が消えない中で、空手のことは全く知らなかった。空手ばか一代もブルースリーも知らなかった。しかし、「姿三四郎」など、本で読むストーリーに出てくる空手家の悪役のイメージはあったと言う。

当時、母子家庭で親が水商売であることがすでに問題児扱いされる。そういう時代だったため、小沢は特に素行が悪いわけでもないのに、「あの子とは遊んではいけない」と周囲の親から言われていたそうだ。理不尽な話である。

その点について質問すると、「空手は悪役扱いされている。それがどこかで空手の孤独性と自分の少年期の心境と結びつくものがあったような気がする」と小沢は当時を振り返って言った。

そんなある日、ペットショップでくだんの空手の先生と出会い、勧められるまま、「軽くやってみないか」と入門したのだそうだ。孤独感に浸りながら、家で読書をすることの方が好きだった少年・小沢である。通常、強くなりたい、喧嘩に勝てるようになりたいという気持ちで空手を始めるきっかけになるものだが、小沢はそういう面で一味違っていた。劇画や映画で脚光を浴び始めた空手とはいえ、少年時代の小沢の頭の中では、空手=悪役のイメージは拭えなかった。しかし、自分の心のどこかで空手とつながるものがあり、それが道場に入門するきっかけになったのであった。

CONTACT

お問い合わせ

お問い合わせはこちらから tel:0265249688 お問い合わせ