両親が離婚し、かぎっ子として日々を過ごしていた小沢。少年ながらにして、空管のテレビが消える時のような孤独感、恐怖感を抱いていた毎日。現在の社会情勢で考えれば、非行に走るか、あるいは自分の人生に絶望感を抱いて、最悪の結果を招いても不思議ではない状態だったのである。しかし、少年・小沢はそんな心境を抱えながらも空手という武道に出会った。流行していた劇画や映画に影響されたわけでもない、喧嘩に強くなりたいと思ったわけでもない、ただ、単に自らの孤独感と世間では悪役扱いされる空手のイメージに共有感を抱いての道場入門だったのである。
武道なんて、自分の中で苦手だった。どちらかというと、小説を読んでいるのが好きだった。でも、空手をやるだけで自分を変えられるかもしれないと漠然と思っていた。それが小沢が空手を始めたきっかけである。当然ながら、空手の流派も種類も知らなかった。たまたま、ペットショップで空手の先生との出会いで始めただけである。
そこは伝統派の空手道場。そして、その宗家は学生運動で名をはせていた人でT先生(三代目)といい、組手は伝統派でありながら、寸止め形式ではなく、直接打撃で目つきもあるし、顔面あり、場外で中止もない、実戦空手を標榜する個性的な道場だった。
稽古内容は普通の空手の練習…つまり、場基本稽古から始まって、移動稽古、約束組手があって、自由組手が行われる。とはいえ、それまで一切、武道経験のない小沢である。「体力的についていけたか?」というこちらの問いに「練習そのものはそんなに厳しくなかったです。先生が空手家にしては珍しく、左翼思想の人だったので、空手道場というより、思想団体みたいな雰囲気がありました」
現在ならともかく、昔の武道の道場はどこも体育系の色合いが濃い時代だったのである。にもかかわらず、思想団体のような道場というのは、きわめて珍しいと思う。 入門した少年・小沢はどのように変わっていったのだろうか。
空手と言う武道は虐げられた武道というイメージを抱いていた小沢であるが、その道場は先輩・後輩の厳しい「縦の世界」ではなく、門下生は横のつながりという珍しい道場であった。そういう雰囲気も小沢にとっては、馴染みやすかったのではないだろうか。
入門したのが中学三年の時。その後、小沢は東海大学付属高校へ進学する。毎日でも稽古したいところだが、高校時代は帰省した時しか道場に通えず、練習ができない時は仲間を募って、授業が終わってから空手の自主稽古をしていたそうだ。
進学した高校は校風も荒れていた。ちょうど、その当時は劇画の「花の応援団」が流行するなど、つっぱり路線全盛時代である。長ランを着て、髪型はリーゼント。世相を反映して、多くの高校(全てではないにせよ、そのような風潮が強かった)も荒んだ風潮だったのだ。大人しくて、子どもらしくない考え方をして人生を送ってきた少年・小沢である。それがいきなり、荒れる校風の中でやっていけたのだろうか。
「喧嘩は日常的にありました。自分はそういう中で自衛のために戦っていたんです。理不尽な絡まれ方をすることもあったので、それに対処するために喧嘩していましたね」
空手を学ぶ者は初めの頃は、大抵の者が自分が強くなった気がして、腕試しをしたくなる時期がある。しかし、小沢の場合はそうではなく、あくまで自衛のために戦ったのである。蛇足だが、こういうケースも珍しい。いくら、空手をやっているといっても、あくまで稽古は稽古。やんちゃ、粗暴な性格ならともかく、日常生活では普通に大人しい少年だった小沢である。そんな観点から見ても、喧嘩をするようには思えないのだが、「自衛のために戦った」というのは、小沢自身、気づかないところで潜在的な闘争本能があったのではないだろうか。つまり、武道家としてのDNAが潜み、それが身を守るという危機感から闘争本能が芽生えたと思うのである。
小沢が学んでいた空手道場は顔面を当ててもいいというルールだった。空手と言えば、一撃必殺のイメージ。部位鍛練をして、試し割りをし、その鍛えぬいた正拳突きが相手に当たれば、大怪我をするか、場合によっては死んでしまうのでという凄みのあるイメージが世間にはあった。当然ながら、小沢もそう思っていたのである。
ところが、その道場で稽古すると、当たった程度で人が倒れるのは稀だったのである。そんなケースを目にするにつれ、想像していたより、空手という武道が貧弱に思えるようになってきた。一撃必殺というには、その打撃力はあまりにも遠く感じたのである。必然的に、やっている空手という武道に疑念を抱くようになる。そこで、小沢は仲間との自主稽古では空手の練習もするが、パワーをつけるため、同時並行して筋力トレーニングもやっていた。組手で相手に突きなり、蹴りを当てて、単に一本を取るようなことをやっても意味がない。そう思ったのである。
喧嘩になった時も絶対的に勝てるよう、ワンパンチで倒せることが目的になっていったのだ。その頃から小沢は思想重視の空手道場の技術に対し、疑問を抱くようにもなっていった。
人の顔は丸い。道場で教えてもらった正拳を打っても、直角に当てるのはきわめて難しいことを喧嘩で痛感するようになった。倒すには拳を打撃の目標に対して垂直に当てないといけない。稽古で行われる正拳突きでは目標を正確にとらえることができないことを身に染みて感じたのである。もしくは、その打ち方で喧嘩をしても、思うように相手が倒れない。
「相手を着実に倒すための合理的な技術体系もないのではないか」…疑問が常に胸中に渦巻くようになった。荒れる高校生活の中で自分のプライドを守っていくには、学んでいた空手が果たして通用するのかどうかという疑念が日増しにふくらんでいったのである。
少年期から求めていた理想の武道。通っている空手道場が、その思いに「応えてくれるものがあるんじゃないか」と期待していたが、実際はそうはらなかった。結果的に、技術的な部分や精神的な面でも疑問が強くなっていく。「特にどういう点に疑問を抱いたのか?」という問いに小沢はこう答えた。「正拳突きで行われる、空手の引手です。流派によって、その引手の位置が腰、あるいは胸の位置が正しいかどうかと取り上げられていましたが、私個人の考えで言えば、その打ち方自体がそもそも、実戦面で理に合わない。実際に試せば試すほど、そう思わざるをえなかったんです」
そういう思いが三年間の稽古の中で日増しに高まっていった。同時に、小沢が空手を始めた頃は空手ブームであった。必然的にその情報が劇画や映画で伝わってくる。ブームの頂点に立つフルコンタクト空手の存在もその当時に知ったのである。「大学に出れば、フルコンタクト空手を学べる、今の空手道場に対する疑問をフルコンタクト空手が払拭してくれるかもしれない」
やがて、東海大学に進学した小沢は著名なフルコンタクト空手の神奈川にある道場に入門した。