無差別大会で2年連続「特別賞」
今回、この記事で取り上げるのは、眞日本武道空手道連盟 大森道場・大森広介である。通例通り、武道を目指すことになったきっかけを訊ねると、こんな答えが返ってきた。
「父親が精肉店を営んでいたのですが、商売柄、気性の激しい人間が多かったんです。殺伐とした雰囲気があって、業者同士の喧嘩を見ることもあり、小学校の頃から「これは強くならないといかんな」と思ったのです。同時に、この頃は劇画で空手家をヒーローとした作品も有名になっていました。なので、武道を目指すきっかけは、この二つだったのです」
やがて、高校に進学した大森は柔道部に入った。彼は知らなかったのだが、その高校が柔道では名高いところで、愛知県ではトップクラスを誇る名門の柔道部であった。そこで出会った柔道部の先生との出会いが強かったと言う。
「ここで初めての武道の厳しさを知りました。周りはみんな黒帯で、特待や推薦に入部した者たちばかり。白帯だったのは自分を始めとするわずか数名にすぎませんでした。その後、漫画で柔道部物語というのがありましたが、それを実現したような柔道部でした。上下関係も半端なく厳しくて、先生も竹刀を振り回して指導していました。練習もきつかったですね。締め落とされることもしょっちゅうでした。『参ったをするな』というのが先生の信条だったので、耐えていると落とされてしまうのです。締められると、目の毛細血管が切れて、白目が真っ赤になるので、当時の一年生はみんな、目がうさぎみたいになっていました。それぐらい猛練習をこなしていたので、柔道以外のことなら楽に感じられるぐらいでした。ちなみに、先輩はインターハイのトップクラスであったり、同期の柔道部の中には愛知県柔道連盟の重臣になっているような存在もいるので、柔道の名門校というのは名ばかりではなかったのです。ちなみに、自分みたいに白帯で入部した者でも、国体強化選手に選ばれました。日々の猛練習の甲斐あって、愛知県内では軽量級でベスト4までになりました。いずれにしても高校時代は勉強をした記憶が無いぐらいの柔道漬けの三年間でしたね」
その後、高校を卒業した大森は全国でも有名な芦原会館の道場に入門した。一人で複数の者に勝てる武道、それは空手しかないと思っていた大森が喧嘩十段と呼ばれた芦原師範のもとに学びにいくのはごく、自然な流れだった。武道や格闘技をやっている人間なら、今でも芦原の名前は浸透している。「どのような雰囲気の方でした?」と聞くと、「初対面からオーラが凄かったですね。目つきの鋭い方で猛獣を思わせるぐらいの迫力でした。打撃の切れ味も鋭くて、道着の浮いている部分に芦原先生がパンチを打つと、バシッ!とすごい音がしたのを覚えています。パンチそのものも見えないぐらいのスピードで、噂通りの人でした。そんな芦原師範でしたが、門下生に対しては気さくな方で自分も良く可愛がっていただきました。ある日、芦原師範が自分を指さして、ある黒帯の門下生に『こいつ、名古屋にいたんだよ』と紹介してくれたのです。すると、その方が『自分も愛知県にいたんだ』と言ってくれました。ちなみにその人は後にキックボクシングに転向し、フェザー級のチャンピオンにまでなったぐらいの強豪でした」
柔道では鍛え抜かれた大森だが、空手は素人である。初めの頃は練習に戸惑うことばかりだった。
「でも、芦原師範の指導は理にかなった丁寧な内容だったので、分かりやすく、技の吸収も早かったですね。芦原会館には二年半いました。有段者を目指す毎日だったのですが、緑帯を取った頃に親から『精肉店を継いでほしい』と言われ、名古屋に戻ったのです。心残りでしたが、親の頼みを断ることができませんでした」
名古屋に戻ってからの大森は精肉店の修行に出ていたので、一時的に武道からは離れていたが、二年ほどでそれが終わり、改めて名古屋市内にあるフルコンタクト空手の道場に入門する。そこで二年ぐらい練習し、茶帯を取得した。黒帯を取る目前だったが、諸事情で退会したのである。しかし、武道にも運命の神というものがあるようだ。「次はどうしよう」と考えていた大森にいい出会いがあったのである。それは愛知県・安城市にある道場を構えるスーパーセーフ着用のナックルサポーターで組手をする空手との遭遇だった。大森が若き頃の話である。高校時代の柔道と約四年半の空手の稽古で自信をつけていた彼は他から見てもその雰囲気が伝わったのだろう。これは後から聞いた話らしいが、この時「大森を倒せ」という指示が師範代に入っていたのである。
「やる前から嫌な雰囲気がありました。通常の組手というより、私闘に近かったです」
緊迫した道場内の組手では最初に大森の内回し蹴りが相手の顔面をかすったところ、相手が猛然と反撃してきた。思わず顔面をブロックした時に強烈な右のハイキックをくらい、なんと左腕が折れたのである。この時はバキッ!という異常な音が道場に響き、誰もが折れたのが分かったと言う。しかし、組手中で興奮状態だった大森はアドレナリンが分泌されていたので、痛みも感じることなく、組手は続行された。しかし、終わった後に手が上がらなくなり、そこで初めて折れたことを知ったのだそうだ。
「負けた悔しさより、こんな強い人かいるんだという感動を覚えました。その人とは以降、公私ともにお互いを湛え合うようないい関係を築くことができました」
ちなみにこの時の話の続きで通常、骨折後は三か月ぐらいの安静を言われていたにも関わらず、早く練習を再開したい思いから一カ月ぐらいで練習を再開した。結果、弱くなっていた腕を三度にわたって骨折し、病院の医師から「骨盤の骨を削って左腕の骨に移植する」と言われたのである。手術が無事、成功したという医師に対して、「また空手ができますか?」と大森が訊ねたところ、「そのために手術をしたんだ」という医師の回答に思わず、目頭が熱くなったそうだ。しかし、通常ならここまでの目に遭ったら、これに懲りて辞めてもいいはずだ。しかし、大森はそのような気持ちに一切ならなかったのである。
その当時、大森は打撃系で最強の格闘技はキックボクシングだと思っており、たまたま仕事の帰りに通りかかった名古屋市内の大和ジムに入門した。しかし、その当時はあくまでも空手の大会に出るためにキックの修行をするつもりだったのである。だから、プロになるなどの気持ちは毛頭なかった。その頃の思い出を訊ねてみた。
「練習は合理的な指導だけど、とにかくきつかったです。ジムは真面目にやっている会員から目星をつけてくれていたのですが、途中から小磯コーチという方から熱心に指導されるようになり、『左フックがいいな』と言われ、それを嫌というほど練習させられました。さらに、マイクタイソンのビデオを貸してもらい、指導中は『大森、ミットから煙が出るぐらい打ち込め』と言われました。それぐらいイメージトレーニングの重要性を言われたんです。小磯コーチの指導はとにかく厳しくて、少しでも練習をさぼって、ジムに行くと『おまえ、何をやっとるんだ!』とパンチングミットが飛んできたことを覚えています。スパーリングで息を切らすと、『朝、走っていないだろう』と言われましたし、とにかく鬼コーチでした。でも、『この人についていけば強くなれる』と思ったことを今でも鮮明に覚えています。ちなみに大和ジムに入門する前はトレーニングシムでベンチプレスで130kg、スクワットで200kg挙げれるようになっていました。それだの筋力があれば強い打撃ができると思っていたのですが、入門してからそうではないことを知りました。ちなみに、入門時は75kgもあった体重が食事制限なしで60kgまで落ちました」
その頃、大森は新空手道の大会にエントリーしていたが、会長から「おまえはプロデビューしろ」と言われた。照準が変わり、再び小磯コーチとの厳しい練習が始まったのである。しかし、今から思うと、そのきつい経験がキックボクシングだけでなく、他のことにまで活かされるようになり、「小磯コーチには感謝の気持ちを抱くようになった」と言う。「この指導を受ければ、たいていの者はそこそこまでいけると思ったのです」と大森。ちなみに、小磯コーチは現役を退いたにもかかわらず、自ら選手とスパーをし、そのうえで厳しいミットトレーニングを行っていた。そして練習中は一切、目をそらさず腕を組んで選手たちを見ていたのだが、大森曰く「その姿がドラゴンボールのベジータそっくりだった」と言う。ちなみにキックの戦績はプロで二戦して一勝(1KO)一敗。一敗した時は大森の父が危篤状態で仕事が多忙になり、練習にも集中できない時であった。その後、父親が末期がんで他界したため、会長にその事情を伝えキックからは遠のくことになった。
それでも大森の武道人生は終わることはなかった。キックボクシングのジムを辞めてしばらくしてから、以前、私闘をして腕を折られたHさんという人が独立して、一派を立ち上げたことを大森の自宅に来て教えてくれたのである。その当時(今から35年ぐらい前)は名古屋にプロのキックボクサーは数少なかった。そのキックの技術を指導してほしいと言われ、手伝うことになったのである。当時、ちょうどタイミングよく、空手道場を立ち上げようとしていたフルコンタクト空手時代の朋友で加藤さんという人がいたので、この道場の支部長になってもらった。その後、安城市にいくつもの支部道場が立ち上げられ、ちなみに、大森も正式に独立して自分の道場を構えることになった。やがて、大森は以前から大会に出場させてもらっていた富樫師範の連盟に加盟することになった。道場での指導はキックボクシング時代の小磯コーチの指導法がベースになっているそうだ。そのままやるのではなく、教科書のように活かすことで大会に送り出す選手を上位に入賞させることができるようになったのである。