長野県大鹿村にて
大森の人生において、何人もの偉大な人物が現れてくるが、禅道会・小沢主席師範との出会いはことに大きかった。初めて出会ったのは2023年、東京の富樫師範の道場開き後のパーティーの場だった。その頃から小沢師範の存在はメディアで数多く取り上げられ、大森も認識があったが、実際に会った時は「禅道会の小沢先生だ!」と感動に近い心境になったらしい。その場では名刺交換と他愛もない挨拶だけで済んだのだが、一カ月ぐらいしてから急に大森の携帯に小沢師範からの連絡があった。その時、禅道会では新しくスーパーセーフを制作しようとしていた。そのこともあり、名古屋で会わないかという誘いだったのである。当時のことを振り返って、大森はつぎのように語った。
「心境としては、禅道会はその頃すでに5000名以上の門下生を有し、プロの場にも選手を送り出す著名な道場でした。それに対して自分の道場の門下生は20名ぐらい。だから、それだけ偉大な方から電話をしてくれたのが嬉しい気持ちになっていました。ただ、小沢先生の人間性も全く分からない時だったので、緊張感もありましたね。その頃、自分の道場に通っていた加藤さんに『明日、禅道会の小沢先生と会う』とを話したところ、『それは凄い人と会うんだな』と関心を抱いていたことを覚えています」
そして翌日の夜、大森は小沢師範と名古屋駅で待ち合わせをして、駅裏の焼肉屋で食事をしながらお酒を飲んだ。盛り上がった時に、大森が独立する前に所属していた道場のEさんという方も途中から合流し、酒席は盛り上がるものになった。その時の大森の小沢師範に対する印象は「今までにあったことない空手家だ」と思ったと言う。武道家の中には高慢な人物もいるのだが、小沢師範にはそれを一切感じなかったのである。
「話が深まるにつれ、小沢先生の懐の深さを感じました。一番、影響を受けたのは先生の空手に対する考え方です。未だにその時の会話の内容は覚えているのですが、少年部の大会の話になったのです。トーナメントなので、優勝以外は必ず一回は負けるんですね。だから、優勝を果たすために。所属道場の指導者は必死になります。でも、小沢先生の考え方は違っていたのです。先生はこう語っていました。『負けた気持ちを感じさせるために大会を開いている。負けてから学ぶことを感じさせることが目的』と言われ、その言葉が深く心に残ったのです。負けても頑張る姿勢を作る。そこからがスタートだと言われるんですね。そう言われてみれば、人生を歩んでいく中で負けること、失敗することは数多くあります。でも、そこで挫けずに新たに挑んでいく姿勢が大切。それを肌で感じさせられて以来、自分も子どもたちを大会に出場させる時に『負ける経験をさせるために出場させます』と言うと、親がとても喜んでくれました。小沢先生の出会いにより、『優勝を目指して負けを学べという禅道会=小沢先生の考え方』が自分の空手人生の新しい価値観になったのです。以来、自分の道場では負けから学ぶことの方が多いことを子どもたちにも親御さんにも感じてもらうようにしました」
その後、小沢師範との関係はより深くなり、名古屋に来た時は大森道場に泊まっていくこともあるぐらいの親交になった。また、小沢師範も何かあると大森を長野に呼ぶなど、そんな関係が今も続いている。約13年の付き合いである。禅道会の大会に必ず呼んでもらうようになり、様々な体験をさせてもらうようになった。
話はここで変わるが、人との深い出会いは次なる人との出会いを生むものだ。大森はその後、キックボクシングジム時代の小磯コーチの紹介で医師である紺野という人と出会う。生まれも育ち方も違う二人だが、紺野は柔道の有段者ということで話も合った。当時、二人はある合気柔術を学んでいたのだが、親しくなって以来、毎日のようにやりとりするような関係になった。その後、一緒に事業をやろうという話がどちらからともなく出た。その後、大森は精肉業を辞めることになり、一時的に紺野のやっている老人ホームの仕事を介護士として関わることになったのである。
「自分はそれまで、社長か師範としか呼ばれなかったのですが、その職場で引き合わされたのが女性(看護師)だったのです。『今日からあなたの上司になるKといいます』と言われ、女性が直属の上司になるのかと思いました。しかし、仕事をしていくにつれ、その人の勤務ぶりや職場の高齢者に対する対応や責任感に感心させられることが数多くありました。その頃、ちょうどコロナ禍になって職場も大変だったのですが、Kさんは家族に会えない方々に向けて様々なサプライズをしたり、自分も空手の演武をやったりもしていました」
ここで人を喜ばせることの重要性を学ぶことができたのが大きな経験になったと大森は語る。そして旧知の知り合いになった大森と紺野だが、それは永くは続かなかった。紺野が急死したのである。大森にとっては、ショッキングな出来事であった。その前に紺野は新しい事業計画を考えており、そのパートナーに大森を考えていたのだ。
「紺野さんは他界する前に『見えない世界(事業)を一緒にやろうよ』と言って、手を握ってきてくれたのです。普段はそんなことをする人ではないから驚いたのですが、後になって、自分の死を予測していたのかというような握手でした」
ウクライナの子どもたちと
ちょうどその頃、大森は小沢師範から海外渡航の話が持ち掛けられていたのだ。行く先はなんと、戦争渦中のウクライナである。禅道会ウクライナ支部への渡航の話だった。その時の心境を彼はこのように話してくれた。
「海外の話は以前から小沢師範から言われていたのですが、行く気にはならなかったのです。ですが、紺野さんが言った『見えない世界』という言葉が胸に深く残っており、行くことを決意しました。戦争真っただ中の危険な世界です。通常は入国できないのですが、禅道会が受け皿になっているので、初の日本人として入国できる許可が下りました。小沢師範のセミナーというかたちでの入国だったのです。その技を受けるパートナーがこの自分でした。セミナーでは受けたことのないアキレス腱固めで足がちぎれるかと思いました。毎日、こんなことが続くので憂鬱な思いになる一方で、『これが禅道会の技か』と感嘆する思いにもなったものです」
ウクライナ支部長と大森
ちなみに、このウクライナ渡航は当初、NHKも同行する予定だったが、危険と判断され、現地のレポーターを雇うことになり、そのスタッフたちが取材をしていた。また、長野県の民放のテレビ局は小沢師範と大森がウクライナに滞在する間、その模様が毎日のように放映していたらしい。小沢師範の稽古シーンを大森が動画を撮影し、それが小沢師範を通して民放に送られていたのである。しかし、戦争渦中のウクライナである。滞在している間、五回にわたって空襲警報が鳴ったそうだ。大森からすると、テレビドラマでしか知らなかったことが現実となり、相当、動揺したらしい。結果的にウクライナには2023年の10月末から11月にかけての二週間、滞在していたのだが、行く前は当然のごとく家族の猛反対があったと言う。奥さんから「戦争にでも行くの!?」と言われ、口も聞いてくれなくなったそうだ。ちなみにウクライナに行った大森に奥さんから毎日のようにLINEがきたが、その内容が「生きている?」という問いかけだった。
感謝状
最後になるが、ここで大森の人間味を知るようなシーンを書くことにする。大森がウクライナに行った際、空手の黒帯は紺野の帯を持って行ったのだ。「自分としては紺野さんと二人でウクライナを体験する気持ちになっていたのです」そう語る大森の言葉から、紺野に対する深い気持ちを垣間見ることができた。