今回から紹介するのは、大誠館館長であり、禅道会の札幌道場長で北海道責任者である宮崎文洋氏(以下、敬称略)。
宮崎は幼少・少年期は北海道の炭鉱町に住んでいた。父親が学校の教員だったそうだ。仕事柄、躾には厳しかったようで、それを超えて、今風に言うと、虐待のような家庭環境で育っていたと言う。厳格なまでの父親の存在に抑圧されていたのである。やがて、小学校二年の時に虻田町に父親が転勤。そこは漁師町で地元の子どもたちも血気盛んで喧嘩が絶えないようなところだった。転校生の常として、最初は苛められてばかりいたそうだ。当時を振り返って、宮崎は言う。
「父親に抑え付けられていたこともあり、昔から短気な性格だったんです。ある日、三人ぐらいの子に囲まれ、ボコボコに殴られましてね、感情を抑制できないものだから、そこで切れたんです。やられる前にやる!という感じで、その子たちを三人とも返り討ちにしてしまいました」
それからは立場が逆転して、苛めもなくなった。以来、友だちも自然に増えてきたそうだ。武道への目覚めは三歳上の兄が高校の時に柔道を始めたこと、その頃、漫画で武道関係の通信教育の告知があったことがあった。喧嘩が絶えない街で、「どうしたら勝てるか」に興味を抱いていた少年・宮崎。なおかつ、争いは外だけでなく、兄とも喧嘩が絶えなかった。兄は身体も大きく、柔道もやっているから勝てない。そのあたりで、宮崎の心に余計に強くなりたいという気持ちが強くなっていたであろう。
やがて、宮崎は中学二年の時に伝統派の空手に入門した。そこの師範からは人は一撃で倒せると言われ、型がメインの稽古だったものの、「人中を殴れば一発で倒せる」と言われていた宮崎は妄想をふくらませて、次の喧嘩を楽しみにしていたそうだ。
「でも、実際に喧嘩になって、その人中を何度殴っても相手は倒れなかったんです。その時、相手は四人ぐらいいたので、逆にやられてしまいました。思い余って、師範に『倒れないんですけど』と相談したんですね。ところが、師範から返ってきた言葉は『修業が足りない』の一言だけ。中学生ながらに『これではダメだ、思うようにはいかない』と思ったんです」
ちょうどその頃だ。稽古をしていた同じ体育館でサンドバッグをハイキックで蹴りまくっている茶帯の空手家がいた。その鋭いまでの蹴りを放つ空手家に強い関心を抱いた宮崎が話しかけたところ、洞爺湖の温泉街で極真空手を学べる道場があることを知った。
「この空手こそ、自分が求めていた武道だ。ぜひ、やりたい!」と思ったものの、当時の極真空手は高校生にならないと入門できないという規則があった。ちょうどその頃である。宮崎が中学三年の時、父親の虐待は相変わらず続いており、我慢できなくなった宮崎は父親に対して、思わずファイティングポーズをとった。初めての反抗だったのである。父親に「そんな態度をとるのか!」と激しく怒られ、「そんな態度をとるなら、空手は辞めてしまえ」と言われ、稽古をしていた伝統派の空手は辞めされられてしまったのである。
辞めたとはいえ、自分の意志でそうしたのではない。強さへの憧憬を捨てきれない宮崎はその間、通信講座で自己流の練習に取り組むことにした。サンドバッグは手作り。それを使って、打つ、蹴るという打撃の練習に励んでいたのである。そんな宮崎が念願かなって、極真空手の道場に入門したのは、高校生になってから。その道場の師範は北海道支部の中でもいちばん厳しいと言われていた人で、一緒に五人ぐらいの仲間と共に体験稽古に行ったが、「喧嘩のつもりで来い」と言われ、いきなり組手をさせられたと言う。今では考えられない話である。当然の結果として、空手には素人の仲間たちは全員が倒された。宮崎自身もハイキックの受け方も知らないから、何をくらったか分からないまま倒されたそうだ。普通なら、ここで辞めてしまってもおかしくない。いくらなんでも、体験に来た少年に対して、いきなりの組手をさせて倒すなど、あまりにも無茶な話だ。
しかし、宮崎は違った。当時、爆発的な人気を呼んでいた劇画の空手バカ一代。それを読んでいた時期だったから、「これが極真空手か!すごい!」と逆に感動したと言う。結果的にその時、一緒に体験稽古に参加した仲間は入門しなかったが、宮崎一人だけがその道場に入門した。そして、高校時代はずっと、極真空手の道場で空手三昧の日々を送る。日々の組手で当てる感覚に慣れてくるから、喧嘩でも強くなった。そうすると、周りも「あいつは空手をやっているから」と喧嘩の確率も低くなったそうだ。ちなみに当時、習っていた先生は外見も怖く、高校生だった宮崎もそれに憧れた。その頃は空手=喧嘩という位置づけでしかなかったのである。そんな中、父親の虐待は相変わらず続いていたが、肉体的にも強くなっていた宮崎は感情をコントロールできるようになり、精神的にも余裕を持てるようになっていたそうだ。武道は肉体のみならず、精神も強くする。それを宮崎は地で行っていたのである。そのうえに、である。空手は喧嘩の道具だったと思っていた宮崎は少年ながらにして、「もう、そんな恰好をつけることなんかないんじゃないか」という気持ちが芽生えるようになっていた。
かといって、急に行動・態度が改まるわけではない。血気盛んな気持ちもそう簡単に収まるものではない。通っていた高校には喧嘩がすごく強いという人間がいた。その男とどうしても喧嘩をしたかった宮崎は高校の卒業式の日にその相手と大喧嘩をしたのである。それで勝った宮崎は高校卒業と同時に“自分のけじめ”として、極真空手も辞めてしまったのである。宮崎には申し訳ないが、このあたりが不可解なところである。普通なら、一番、喧嘩に強い相手に勝ったのだから、さらに自信を深めて空手の稽古に没頭してもいいはずなのだが、退会してしまうのだから…。
その一方で大学に進学した兄は入学してから、柔道から北海道の極真空手に入門し、大会でも上位に入賞するまでになっていた。ちょうど、その頃である。兄が体育館で稽古をしている時に同じ場で稽古している空手家たちがいた。それが正道会館の人たちだったのである。そして、彼らに「極真やっているの?」と聞かれ、続いて「石井館長という先生が来るから稽古に参加してみないか」と誘われたのだ。当時の正道会館はまだ、マイナーな団体だった。当然ながら、ネームバリューもなく、誰もその名を知らなかった。せいぜい、「実戦正道空手」という技術書が発行されている程度だったのである。
その後、兄は石井館長と会い、極真とは技術も稽古法も違っていることを体験させられた。一種の感動もあったのだろう。兄は宮崎に「今度、石井館長が来るとき、良かったら来てみないか」と誘ってきたのである。当時の模様を宮崎はこのように語ってくれた。
「講習会に参加して、実際に石井館長に教えてもらうことになったのですが、初対面の石井館長はスーツを着て、ごく普通の人だったんです。正直、『この人、本当に強いの?』と最初は思いました。そんな自分の疑問を悟られたんでしょうね。自分も道着を着て、石井館長と組手をすることになったんです。『なんでもいいから、かかってきなさい』と言われまして…。当時は自分も腕に自信があったので、大したはことないだろうとかかっていったら、回し崩しで見事に投げられ、吹っ飛ばされました。その後、何をやっても投げられ、崩され、まったく歯が立たなかったんです。それはもう、圧倒的な技術力の差を感じさせられ、自分がやってきたことは全く通じないなと実感させられました。先に正道館空手を体験した兄を知っていた石井館長は自分のことを弟だと知っており、『おんちゃん、空手やってきたんだろ』と聞かれたんです。でも、そう答えるのが恥ずかしくて、思わず、『いや、やっていないです』と答えてしまいました。続けて、これが倒す正道館だとも言われ、『もう一度、空手やったらええやん』という気さくなまでの言葉に引き付けられんです。体格も自分とそう変わらず、空手家とは思えないような、ごく普通の雰囲気の人がすごく強かったものだから、もう一度、空手を学びたいという気持ちで正道会館に入門することになりました」