前回、取り上げたのは全日本キックだったが、そのライバル団体である日本キックボクシング連盟にも強い選手がいた。目黒ジムのフェザー級チャンピオン亀谷長保選手である。とにかく、アグレッシブなファイターでハードパンチャーだった。全日本キックとの団体試合で目白ジムのフェザー級チャンピオン、島三男選手を一ラウンドでKOもしている。
記憶に残っている名勝負はムエタイ選手(名前は失念した)との試合である。このムエタイ選手もタイ人にしては珍しく、ポイント勝負より、倒しにかかる選手だった。だから、試合前から「どちらが勝つにしろ、KO決着は必至」と言われていたのである。
幕を開けてみれば…一ラウンドから目の離せない激しい打撃戦が始まった。キックボクシングは蹴りを使う分、ボクシングより体力の消耗は激しいのだが、そんなことはおかまいなしの双方譲らぬ打ち合い、蹴り合いである。テレビ観戦していても戦慄させられた。
そして、ムエタイ選手の肘打ちと亀田選手のフックが同時に当たって、ダブルダウン!カウンターで当たった場合、肘の破壊力はパンチよりもある。さすがの亀田選手も立てないかと思われたが、必死の形相で立ち上がったのである。
その当時、ど根性売りのスポーツドラマが流行っていたが、それを実際に見せるかのようなすさまじい闘志だった。そして、危ういシーンが何度かあったものの、最後は得意のパンチでタイ選手をノックアウト。あれぞ、まさに観る人を震撼させるかのような試合だった。
とにかく、打撃力だけでなく闘争心の強い選手だったのである。ラジャダムナン、ルンピニーの現役ランカー、サクダ・チェタマニー選手との試合は一回目は肘打ちで負けはしたものの、その時ですら、額をざっくり切られて血だらけになりつつも、すさまじい形相で立ち向かっていた。レフリーが止めなければ、最後の最後まで戦い抜いていたと思う。そして二度目の試合は前回の雪辱を果たさん!とばかりに初回から果敢な攻撃で豪快なKO勝利を治めている。
同じ階級のランキング一位にカウンター巧者の松本選手がいた。この亀田選手がいなければ、間違いなくチャンピオンになれたと思われるのだが、その壁は高いぐらい、亀田選手の強豪ぶりが際立っていた。
亀田選手に敗れはしたものの、全日本キックボクシング連盟、フェザー級チャンピオンであった、島三男選手も強かった。前回、紹介した藤原選手と目白ジムの同門。特別な破壊力ある攻撃を持つ選手ではなかったものの、地道なローキックと左右のパンチで毎回のごとく、対戦相手を屠っていた。
ちなみに自分が所属していたジムの会長もこの島選手とタイトルマッチを経験している。「強かったですか?」と訊ねたら、「強いというより、巧い選手だったなぁ」と語っていた。
今でこそ、ローキックは蹴り技の代名詞の一つになっているが、昔のキックボクシングではそれを駆使できる選手はそういなかったのである。
会長はそのローキックを何発もくらい、ダウンはしなかったものの、ジャッジから見てもそのダメージが大きく、判定負け。
この当時、ボクシング元世界王者二名がキックの世界に転向している。一人が西城正三選手、もう一人が金沢和良選手。いずれもボクシング界では、日本のスター選手であった二人がキックに転向したのは、様々な裏事情があったのだろう。西城選手と藤原選手の試合は不可解な西条選手側のタオル投入で藤原選手が勝利したものの、後味の悪い結末となってしまった。
そして、金沢選手と対戦したのが島選手である。金沢選手は確かキック転向、四戦目ぐらいだったと思うが、キャリアはまだ浅かった。結果は二ラウンドで島選手のKO勝ち。しかし、これで島選手の実力とその知名度は一躍、高まった。
後に島選手は足首の骨折により、ボクシングへ転向。いくらキックの世界で活躍したとはいえ、無理なことをするものだと思っていたのだが、ランキング入りを果たした。しかし、数戦目でKO負けをして以来、ボクシングも引退。島選手のピーク以降は残念な展開ではあったが、キックの一時代を築いた実力ある立役者であったことは間違いのない事実だ。
どんな強敵とも真っ向勝負の試合で、その類まれなる打たれ強さから「不倒王」と呼ばれた玉城良光選手。この選手の印象も強烈だった。
特に印象に残っているのが、ムエタイのセンサック・ムンスリンとの試合。えぐるかのような膝蹴りを何度もくらい、それでも耐え抜いた。試合後、控室に戻った玉城選手は腹部の痛み耐えかね、そのまま病院に直行。なんと、内臓亀裂をしていたのである。それが引退のきっかけになった。ライト級で試合していたため、藤原選手ともタイトルマッチで戦っているが、あの藤原選手をして「玉城さんは打たれ強いから、自分の攻撃は効かないかもしれない」と不安を抱いたそうだ。結果的に藤原選手にも勝利できず、無冠のままの引退はさぞや、心残りだったと思う。
その思いが拭いきれなかったのか、玉城選手は数年後、再び、リングに上がった。ところが数年間のブランクがあったのか、それとも内臓破裂のトラウマがあったのか、その時に対戦したタイ選手のボディ攻撃で負けた。誰もが復活は無理と思ったのだが、彼は諦めなかった。そこで迎えた二回目の試合が自分の所属するジムのAという先輩だったのである。長身でリーチも足も長く、同じ控室にいた他所のジムの先輩格の選手が「玉城はボディが弱くなっている。前へ出てきたところに膝を合わせろ」と何度もアドバイスをしながら、カウンターの膝の指導をしていた。
そして、リング。この時、自分はセコンドについていたから、あの時の情景は今も目に焼き付いている。先輩の主戦武器はワンツーからの右ストレートだった。それで何人もの対戦相手を倒して、ランキング入りしたのだが、その右がまともに当たっても、玉城選手は倒れず、動じない。打たれても瞬き一つせず、相手を見ているのだ。その状態から執拗にローキックを返してきた(A先輩は二試合前ともローキックで倒されていたから、それが玉城選手の戦略だったのだ)。結果、先輩はローキックのダメージで倒された。
それが弾みになったのか、以降の玉城選手の活躍ぶりは素晴らしかった。後に全日本ライト級チャンピオン、WKA世界ライト級チャンピオンにまでなっている。試合数は確か100戦はしていたと思うが、そのうち、完全なKO負けは一度もないという、まさにモンスターのような選手なのである。
リングでの戦いに完全燃焼した玉城選手はその後、引退し、東京北西ジムを立ち上げて選手の指導にあたるようになった。
少し、話は変わるが、玉城氏とはその後、全日本キックボクシング連盟からニュージャパンキックボクシング連盟に移った頃から親しく話をするようになった。その時、一応、自分も連盟の理事メンバーの一人だったのである。とても気さくな方で、連盟のこれからの方向性についていろいろ語りもした。玉城氏が足立区綾瀬で経営するタイ料理店「オーエンジャイ」で一緒に飲みもした。ここにはリングが設置され、選手の試合を観ながらタイ料理を楽しめるという、奇抜な店だったのだが、それが当たって、結構なお客さんが入っていたものだ。玉城氏との会話の内容も書きたいが、それは次回に。