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禅道会・宮沢正彦の武道人生①

生田の山間部で伸び伸びと育った少年時代

現在、ディヤーナ国際学園で教務主任を担当している宮沢の生まれは長野県。昭和48年の生まれで、子どもの頃は親曰く、ずっと本を読んでいる少年であったらしい。武道を生業としているからには、やんちゃな少年時代をイメージしてしまいがちだが、そうではなかったのである。そんな宮沢に当時の思い出を語ってもらった。

「昔ながらの農村の跡取りだったのです。私が産まれ、育った生田というところは山間部で、山に囲まれる集落でした。傾斜の強い畑があって、その上に家が建てられていました。周辺の環境は平らな場所の方が珍しく、家は山の中腹にあったのです。小学校への通学は800メートルぐらいの標高の山道を片道40分ぐらい上って登校し、帰りは山の中に入って遊びながら帰っていました。いつも、真っ暗になってから帰るので、親に怒られたことを覚えています。当時はそれを当たり前のように受け入れて生活していたのですが、いま、思えば自然環境に恵まれていました。私が産まれたのがちょうど、第二次ベビーブームのピークだったのです。ですから、小学校も登校中に同い年の子が五~六人いて、にぎやかにワイワイ過ごしていました」

そんな宮沢少年は小学校在学中に剣道を始めた。生田の剣道クラブで、ボランティアの年配の方が「剣道をやりたい」という子どもに竹刀をもって教えてくれていたのである。さらに、五年生からは学校のバレーボールもやっていた。剣道は六年生で終えたのだが、こちらの方が好きだったのか、中学校に進学してからは部活も始めた。本人によると、「小学校からやっていたので、結構できた」と言う。運動系の部活もやって、たくましくやっていたように思ったのだが、そうではなかった。というのは、その中学校に通学している子の八割近くが都心部からで、宮沢と同じ小学校から進学したのは、わずか三人だった。さらに、この頃の宮沢は社交的な性格ではなかったため、クラスの雰囲気になじめかったのである。バレーボールはやっていたものの、身体もぽっちゃり体型だった。おとなしく、控えめな性格…こういう子どもはいじめのターゲットになりやすいが、宮沢もそうだった。「●●って知っている?知らないの?おまえの住んでいるところは田舎だもんな。電波も届いていないんだろ」とからかわれた。そんな調子だから、当然ながら学校に行くのが嫌になる。それでも、登校拒否にならなかったのは部活が好きだったからだ。そうこうするうちに、二年生の終わりぐらいから、悪友からのいじめもなくなり、逆に親しくなった。

「からかってくる向こうは考えあってしてなかったのでしょう。でも、自分は嫌でなりませんでした。途中から、それもなくなりましたが、その理由は部活で体を動かしていたからだと思います。好きなことを夢中でやっていたのがよかったのでしょう。バレーボール部の実績は二つ上の先輩が地区大会で上位までいったのですが、私たちの時はそこまで行けませんでした」

そんな宮沢は教科の点数が良かったので、クラスで役員をしていたのだが、友だちの推薦で生徒会の会長選挙にも立候補した。その頃、たまたま骨折をしてギブスをしていたのだが、その状態で「清き一票を!」と回っていたらしい。それが目立って生徒会長になった。ところがいざ、その役を果たそうと思っても何をしたらいいか分からない。結局、他の子たちが取り仕切ってやってくれたそうだ。

勉強についていけないという挫折感を味わう

やがて、受験のシーズンを迎える。上京して小平市への進学を希望したのだが、偏差値の高い高校なので、猛勉強をした。努力の甲斐あって見事に合格。15年間にわたって過ごした故郷の地から離れ、宮沢の新しい生活がここに始まった。だが、ここで宮沢は初めて挫折を感じた。というのは、クラスメートは全員が東京在住で、勉強もできた。それに対して、宮沢が勉強したレベルでは学業についていけなくなってしまったのだ。

「結果として、おちこぼれになったのです。下宿先は自分ともう一人の一年生、二年生の先輩が二人の計四名で共同生活を過ごしていました。みんな、自分の知らないところで勉強していたのでしょうが、食事の後はトランプで遊んだり、とても勉強しているとは思えませんでした。だから、『このままでは、まずい』と焦りました。他の仲間はできても、自分ができないのですから。下宿先では、いつもトランプをしていたので勉強時間も睡眠時間も少なく、授業も寝てしまうのです。そうすると、さらに分からなくなる。成績も落ちるし、学んでいこうという意欲もなくなるという悪循環でした」

勉強についていけないというのは辛いものだ。しかし、そんな宮沢も悪戦苦闘しながらも基礎からの勉強はしていた。その甲斐あって、二年、三年と進級するにつれ、順位は上がった。得意科目で点数を上げて、成績を上げることができたのである。勉強には苦労したものの、部活は中学校からの続きでバレーボールをしていた。文化祭はみんなで取り組んで、さまざまなイベントを開催することができた。挫折することはあっても、充実した高校時代を過ごせたのである。

大学でフルコンタクト空手道部に入部

高校を卒業した宮沢は大学に進学した。ここで初めて、格闘技とのを始めるきっかけがあった。フルコンタクト空手道部(現在はキックボクシング部)への入部である。きっかけは新入生の勧誘で見学に行った時のこと。昇級・昇段審査が行われていたのだが、ここで当時のMAライト級チャンピオンの飛鳥選手と出会ったのだ。

「そこで飛鳥先生が課した二段の昇段審査がかなり厳しかったのです。インターバルを入れて、7Rのスパーリング。スパーリングに臨んだ寺岸先輩は、ダウンをとられることもなく、昇段しました。飛鳥先生が『強いだけじゃなくて、格闘技にかける思いや三国志の誰が好きかを読書で理解を深めろ』と言われたことも印象に残っています。その教えを寺岸先輩は忠実に実行されていました。学業も両立して、現役で中学の英語教員の試験に合格したのです。まさに、文武両道の先輩でした。武だけでなく、学業もやり切って卒業する。素晴らしい方だなと思いました。また、飛鳥先生からも多くの学びと影響をもらいました。ちなみに、先生の座右の銘が『完全燃焼』。明日のジョーの名台詞でした。その思いがあったからでしょうね。『人生は一度しかない。やりたいことをやってみればいいじゃないか』と言われました」

師と先輩の部活で宮沢が主に出場していたのは、新空手という団体の大会だった。二分間で中断への蹴り技を八本入れること、五秒以内なら首相撲ありのルールである。ここで、彼は三年生の時に千葉大会で三位。三位が二回でベストファイト賞、技能賞を獲得した。本人曰く、「格闘技に足を踏み入れるなんて、自分の人生、ありえなかった」と言う。それでも、大学四年間は部活に没頭した。格闘技の経験はなくても、中学・高校とバレーボールを続けていた体力も活かされたのであろう。最終的には五人の相手とスパーリングをやって、四年生で初段になった。話はここで変わるが、大学は司法試験をはじめとする国家試験の合格者が多かった。宮沢も司法書士を目指したが、受からなかった。国家試験は諦め、長野に戻って、一般企業に就職した。ここで彼は禅道会の前身であった空手道と出会うのである。

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