ウェイトトレーニングの甲斐があって、体格も充実した西川。空手の面白さも増すにつれ、より本格的に練習したいと思った、しかし、トラックの運転手をしていては、なかなか、稽古の時間が取れない。そんな西川に、きっかけがあった。当時、バンド仲間の先輩が六本木のバーで働いていたのだが、とても羽振りが良かったのである。「夜、働けば、昼間、練習ができる」と思った西川は、26歳の時に先輩が勤務するバーの応募があったので、面接に赴いた。すると、面接した担当者が西川を見るなり、「でかいね。何かやっているの?」と聞いてきた。空手をやっていると答えたところ、その場で採用が決まった。「バーテンになるのに、どうして、空手をやっていることや体が大きいことがいいのかと思った」と西川。面接担当者から、「いつからくるか」と言われたが、今まで勤務してきた運送会社にはお世話になったし、義理もある。その旨を伝えて、「一か月後に来ます」と答えたと言う。そして、運送会社も円満退社して六本木のバーに再就職したのである。
再就職先のバーは、お客さんのほとんどが外国人だった。それを振り返りながら、西川はこんな話をしてくれた。
「当時、金融ビックバンがあり、外資系が日本に入ってきた関係で、六本木界隈にある、そのバーは毎晩のように外国人客が通っていたのです。お酒が入ると、当然のように喧嘩が始まるんですね。それを他のスタッフと止めに入り、暴れているのを抑えて、外に放り出して営業するという会社だったのです。つまり、自分は飲んで、暴れる外国人対策に採用されたと、後になって気づきました。とにかく、一週間ぐらいは毎晩のように外国人客に絡まれました。我慢していたものの、最後には切れてしまい、暴れる相手を左フックと蹴りで昏倒させてしまいました。その瞬間、『やってしまった』と…。もう馘だと思ったのです。見ていた他のスタッフから『裏に行け』と言われて、落ち込んでいました。すると、一人の先輩が来て、『おまえ凄かったな!』と言われたんです。フロアに戻ったら、他のお客さんからも絶賛されて、『なんだ、この空間は?!』と思いました。以来、スタッフからもお客さんからも慕われたのですが、ほぼ、毎日のようにトラブル対策要員でした。それがきっかけというわけではないのですが、夜の世界が楽しくなり、他の店からも優遇されました。『26歳にもなって喧嘩をやっても、それが認められるのか』と、変に感心したことを覚えています。毎晩のように飲んでは遊ぶという日が続いたので、あれだけ夢中になっていた空手の道場にも行かなくなりました」
西川の武勇伝はそれだけではない。悪辣な外国人の中でも特に危ないと言われる中国人のピッキング強盗とも喧嘩になったのである。彼は仕事が終わる翌日早朝に日報を書くのだが、シャッターを閉めているにもかかわらず、それを開けようとする音がした。おかしいと思った西川が裏口から見ると、明らかに中国人の柄の悪そうなグループが集まっていた。ピッキング強盗である。危険を顧みずに、その連中を片っ端から殴り倒した。全員が逃走したが、リーダー格をつかまえて、派出所まで連れて行こうとした。すると、交差点手前でまた暴れて、逃げられた。それを走って、追い詰めたと思ったら、無謀にもその男は石垣の上から飛び降りた。落ちた際、墓石に顔面を落ちて意識を無くしたのである。西川は「死んだか?」と思ったらしい。しかし、意識を戻したその男はアッという間に逃走をはかった。駆け付けた警察に「おまえ、死ぬ気か」と怒られたらしい。「いくらなんでも、相手(チャイニーズマフィア)が悪過ぎる」と言われ、西川自身、「やばいことした」と思ったそうだ。後で知ったことだが、同じ日に銀座でも同じ事件があった。西川が遭遇したグループと同じ犯人だったのだ。それがきっかけではないが、遊ぶことの楽しさを知った西川は少しずつ、空手からも離れてしまったのである。
ストリートファイトを何度も体験するにつれ、西川は取っ組み合いにも対処できないと話にならないと思った。殴る、蹴るだけでは相手を制圧することはきわめて難しいことを実感したのだ。西川が働いていたバーには、プロの格闘家やラグビーの海外の代表選手が来ていてが、酔っては暴れる。国立競技場で国内の大会があると、出場する選手が15人ぐらいで前日に飲みに来る。しかも、普通の集団ではない。全員が身長190㎝、体重90㎏以上のモンスターのような強者ばかりだ。ピーターアーツやマークコールマンなどの著名な格闘家も来ていたが、ラグビーの選手たちの体格は格闘家のそれとは違っていたそうだ。当時を振り返りながら、こんな話をしてくれた。
「そんなごつい連中が暴れるのです。そいつらをつかまえて、ドアの外に追い出すという繰り返しをしていたのですが、翌日、テレビを見ると、喧嘩していた男たちがフルに走って、試合をしていました。あれだけ、飲んで大騒ぎをしていたのに、凄いなと思ったものです。そのような外国人の内臓の強さや日本人には無い並外れたフィジカルを見ていると、殴る・蹴るだけでは到底、太刀打ちできないと思いました」
その後、30歳を過ぎた西川は再び、空手の稽古をしたいと思った。たまたま、書店に行った際、バーリトゥード空手という禅道会の技術書が目に止まった。すでに、その頃、禅道会はプロ選手も育成しており、その本を読んだ時は彼の胸に衝撃が走ったそうだ。総合格闘技の技術書そのものがなかった時代である。「これは面白い、やってみたい」と思いながら、本を読んでいると、巻末に道場一覧があり、そこに小金井道場が掲載されていた。道場は水曜日の夜に稽古が行われており、水曜日が休みだった西川は「これなら通える」と思い、見学に出向いた。すると、その稽古場である体育館には二人しかいなかった。そこにいたのが小金井の日下道場長であり、もう一人は大学生の稽古生だったのである。以前、西川が稽古をしていた正道会館は常時、100人ぐらいの人数がいたので、たった二人しかいないのに驚いたそうだ。だが、人数が少ないこともあったのか、体験稽古をした時にとても丁寧に指導してくれ、「こういう少人数の道場も楽しそうだな」と思った。稽古では、打撃技だけでなく、投げ技や締め技、技関節技をはじめとする体系がしっかりしていた。人間は二本の足で歩いている。禅道会の理論の一つである“二足歩行の理論”の応用で打撃をはじめとする技が活かせることを知ることができた。
ちなみに、西川は禅道会に入門する前に、クロスポイントという格闘技ジムでキックボクシングとブラジリアン柔術の練習をしていた。だが、二つの格闘技・武道をやっても、しっくりこなかったらしい。また、正道会館では、青帯までしか取得していなかったので、何らかの証明もほしかったのである。武道をやっているうえでの証明と言えば、黒帯である。そこで、総合格闘技のできる空手の道場がないかと思っていたのだ。今でこそ、総合格闘技の道場やジムはいくらでもあるが、その頃は大東塾か禅道会しか無かった。西川の店には昔のバーテン仲間が集まっていたので、そこで稽古を始めたのが六本木同好会の始まりだったのである。