打撃技の一つとして、真っ先に思い浮かべられるのはパンチだと思う。そのパンチテクニックで最も優れているのはボクシングだ。これは自分の経験から実感するのだが、オフェンスでもディフェンスにおいても、「パンチの打ち合い」において、あれだけ特化された格闘技は他に類はないと思う。
伝統派の空手からキックボクシングに転向した時、初のスパーでこてんぱんにやられたことは以前にも書いたが、キックを続けていくうちに、パンチをさらに高めたいと思った自分はとあるボクシングジムにも入会して、キックと並行しながら、その技術を学んだ。
入会して、確か数日のことだと記憶しているが、鏡の前で基本のワンツーをやっていたら、トレーナーから「ボクシング、やったことがあるのか?」と聞かれた。「やっていません」と答えたら、「おまえはセンスがあるから、今日から俺が見てやる」と言われたのである。センスがいいと言われも、キックをやっているのだから、他の入会者に比較したら、巧くてあたりまえなのである。でも、問われたのは「ボクシングをやったことがあるのか」である。笑い話のようだが、それはやっていないから、「嘘は言ってないもんね」と胸中で思ったものだ。
それからしばらくして、自分より少し先に入会していた練習生とスパーをやらされた。むろん、自分の圧倒的勝利である。キックでは一応、プロでやっていたから、それぐらいのレベルでは勝って当たり前なのだ。それを見ていたトレーナーはさらに喜んで、「おまえは、本当に筋がいいから、選手になってみないか」と言ってきた。以降、トレーナーの指導はさらに熱心になった。とはいえ、やらされたのはワンツーと左右ストレートだけである。シャドーでもミットでもそれを延々とやらされた。しかし、続いて、六回戦のプロ選手とスパーをやらされた時は滅多打ちになった。防戦一方に追い込まれて、苦し紛れに相手の首を組んで、思わず膝蹴りが出そうになったことを今でも覚えている。
しかし、このボクシングジムは長く続かなかった。ボクシングの構えやスタンスを体得できるのはいいが、キックのそれとは違うし、パンチが良くなりはしたものの、ローキックへのディフェンスが一呼吸後れるになってしまったのだ。ボクシングがデメリットになったわけではない。それを場面ごとに使い分けられなかった自分の不器用さに問題があったのだ。
本格的にボクシングを学んだのは、就職で広島に赴任した時のこと。長年、キックをやっていたから、身体を鍛えることが習慣になっている。仕事が終わってから、毎日のようにロードワークをやっていた。距離にして6kmぐらいの道のりをインターバル走で走っていた。そして、仕上げに最終地点にある高校の門にある御影石のようなところに自分を映して、シャドーボクシングをやっていたのである。だが、一人で練習を続けるのはどうしても飽きがくる。そこで空手かボクシングのどちらかをやろうと思ったのだ。
初めに空手の道場の見学に行った。そこはフルコンタクト空手の道場だったのだが、顔面なしの稽古体系。門下生の蹴り技は多彩で洗練されていて、キックをやってきた自分には惹かれるものはあったものの、顔面へのパンチ攻撃がないことがどうしても物足りなかった。そこで次に赴いたのがボクシングジムである。
そのジムは古い雑居ビルの二階にあった。一階は魚屋の卸店で、巨大なマグロの頭が転がっていたり、魚の生臭さが充満したりで、今なら絶対に入会者は訪れないであろう場だった。そして、ジムの扉を開けると、スパーリングが行われていたのだ。このジムはファイタータイプの選手を養成しており、それはもう迫真の打ち合いが展開されていた。初めてそんなシーンを見たら、やはり、今なら大半の見学者が回れ右をして帰ることだろう。しかし、当時の自分にはそれが血沸き肉躍る光景に見えたのだ。
その場で会長に入会を申し込んだ。ごていねいに「自分はキックボクシングをやっていました。プロになるつもりはありませんが、スパーはやらせてください」と。余計なことを言ったものである。「それは好都合だ」と答えた会長から、入会当日から試合を控えた選手のスパーリング相手をさせられた。それが四回戦選手ぐらいまでなら、何とか対応できた。しかし、それ以上になると、相手にならない。毎回、滅多打ちである。キック時代はパンチディフェンスはガードを上げて、グローブブロックしかしていなかったから、レバーを打たれて悶絶することも何度かあった。キック時代に肘打ちで鼻を折られたことがあったが、このスパーで二度目の鼻骨骨折も味わわされた。おかげで、「鼻筋が高くていいね」と言われていた自分の鼻は今も変な形に変形してしまっている。
当時、自分は広告代理店の営業をしていたから、さすがにこれはまずかった。上司から「そんなことになるなら、ボクシングは辞めてくれ」と言われたものである。言われて当然である。自分のクライアントにはボクシングをやっていることを話していたから、目に青たんつくろうが、何しようが分かってはくれていたものの、いくらなんでもこれはまずい。でも、辞める気持ちにはなれない。そこでとうしたかと言うと、ジムの会長に「ディフェンスの指導をしてくれ」と頼み込んだのである。
今でこそ、ボクシングジムも経営を重視しているから、一般の練習生にもていねいな指導をする。しかし、昔は選手指導がメインで、一般練習生なんて蚊帳の外だったのだ。だから、こう伝えもした。「今のままでは、選手たちのスパーリングパートナーにはなれない。だから、自分もテクニックを磨いていきたいのです」と。そんな自分の訴えを快く承諾してくれた会長は、その日から一介の練習生に過ぎない自分に選手並みの指導をしてくれるようになった。
ご存じのように、ボクシングのディフェンスにはスゥェー、ダッキング、パーリング、ウィービングなどの様々なテクニックがある。しかし、会長からはこう言われたのだ。「その全てをマスターするのは難しいから、パーリングとフットワークのディフェンスを徹底してやろう」と。
ボクシングのフットワークと言うと、多くの人があの軽快な足運びを思い浮かべることだろう。かくいう自分もそう思っていた。しかし、そのフットワークそのものがディフェンス面で重要ポイントになるのである。キックボクシングでは、フットワークはあまり重視されないし、それを使う選手も少ない。しかし、「こと、ボクシングにおいては、足運びによるディフェンスは大切」と会長に言われたのである。
以降、ジムに行けば、徹底してパーリングとフットワークの練習をさせられた。相手が出た分だけ、下がる。相手が下がった分だけ出る。踵はキックのように「べた足」ではなく、常に浮かせておく。ただ、下がるのではなく、相手のパンチをパーリングしながら下がる。相手のパンチの打ち終わりが狙い目だから、そこで攻撃を仕掛ける。それを毎日のように、何度となくやらされた。それこそ、初めの頃はふくらはぎの後ろ側がパンパンになるぐらい、筋肉痛になるぐらいやった。
そして…その練習を重ねるうちに、スパーでもそれができるようになったのである。打撃系格闘技をやっている方なら、ご存じと思うが、自分の攻撃をかわされたり、空振りされることほど、スタミナを消耗することはない。それまでの自分はファイタータイプだったから、「打たせずに打つ」というアウトボクシングにスタイルを変えたのである。ボクシングは「手だけではなく、足をも使う格闘技」。それを実感させられた体験であった。