合気を探究するうえで、ある程度、その伝承を知る事は重要だと思う。いささか読みにくい所もあるかも知れないが、今回はできる限り簡潔に合気伝承の概要を書いてみたい。
日本最古の書「古事記」には、建御雷神(たけみかづちのかみ)が、建御名方神(たけみなかたのかみ)を「葦を取るように、つかみひしいで投げた」との記載がある。これは相撲の原点になったと言われる「手乞(てごい)」と呼ばれるものだ。この手乞は、我々が知る現代相撲とは趣が少々異なり、より武術的な側面が強かったと推測される。仁明天皇の「勅」(天長十年/833年)には次の様な記載がある。
「相撲節は単に娯遊に非ず。武力を簡練する、最もこの中にあり」
この相撲(手乞)の目的は、天皇を外敵から守護する為に存在し、宮廷や武士の間で広まり修練されてきたと言えるだろう。
伝説によれば、平安時代の後期、清和天皇の末孫である「新羅三郎義光」を始祖として、合気を基とした柔術が生み出された。義光は軍学を習い修め、宮廷に仕えながら武術としての相撲を究めた名将であった。晩年は、後三年の役の戦功によって甲斐守を任ぜられ、園城寺の密教道場で心身練磨を行い不思議なる神通力を体得したとされている。
ここに手乞の技術を発展させた「大東流合気柔術」が生まれたとされるのである。
義光の合気柔術は、次男である義清に伝えられたが、義清が甲斐武田に移住し、武田姓を名乗ってからは、甲斐武田家の武芸として代々伝承された。甲斐武田家滅亡後は、その末裔である会津武田家に伝えられ、藩内の厳選された上流武士及び、 奥女中のみが知る門外不出の秘伝武術として伝承されていった。
時は明治に舞台を移す。会津藩士、武田惣吉の次男として「武田惣角」が誕生。幼少の頃より武術修行に精を出し、相撲、柔術と言った徒手による技術に加え、宝蔵院流槍術、小野派一刀流、鏡新明智流、直心影流剣術等を学んだ。西南戦争後は全国各地で武者修行に興じる。明治三十一年(1898年)、霊山神社の宮司をしていた西郷頼母より、「剣術を捨て、合気柔術を世に広めよ」との指示を受け、大東流合気柔術を広めたと言われている。惣角は生涯道場を持たず、要請されれば何処にでも赴き、差別無く大東流合気柔術の技法を広めたと言われている。
「合気」が近代で注目されたのは、武田惣角の弟子達の活躍である。
特筆すべきは、大東流合気柔術宗範の佐川幸義師と、合気道開祖の植芝盛平師だ。
「小柄な老人が体格の良い相手を触れただけで倒す」、「相手を無力化する技術」等々の不思議な現象を起こす業(わざ)との事で大きな注目を浴びた。この合気は、日本武道の奥義として位置付けられ、今なお多くの武道家達がそれを求め続けている。
また、その不思議な現象の解明については、学識者達によって、幾度も科学的な調査が試みられた。詳細は割愛するが、過去には、筋電計を用いた調査結果から、人体からの微量な電流の発生によって相手を動かすと言った生体電流説や、ベンジャミンリベットの「マインド・タイム」に記載される、0.5秒の認識の遅れによる脳のタイムギャップ捏造説、又は、大脳による脊髄反射制御(バビンスキー反射)によって合気現象が発動するのではないかといった仮説はあるものの未だ解明には至っていない。
このような解明を阻害する理由の一つとして、合気という言葉は具体的な定義が定まっておらず、合気使いと呼ばれる術者によっても解釈や理解が異なってしまう事が挙げられる。これらが益々合気を謎の物としているのだ。
さて、合気という言葉についても触れねばなるまい。
元々は、大元教の「出口 王仁三郎」が造語し、合気道の開祖である植芝盛平を通じて武田惣角に伝わったと見るのが妥当ではあるものの、大東流合気柔術の一派では、禅密功の「合気陽陰法」を語源とするとの説を取っている。しかし、「あいき」と言う言葉は、剣術の世界において、以前より、全く異なる意味で使われていた事実がある。
武田惣角が学んだと言われる小野派一刀流では、「一、合打 敵と打ち合ってどうしても合打となって中々勝負がつきにくいことがある。いつまでたっても合気となって勝負がつかない。遂には無勝負か共倒れになることがある。これは曲合が五分と五分だからである。こんな時は合気をはずさなければならない。合気をはずすのには先ず攻防の調子を変えなければならない」とある。また次項にもこのように記載がされている。「二、留 敵の太刀に逆らい出合に合気となるようなことがない留めの法がある。」(笹森 順造著「一刀流極意」)
さらに、『天真独露』(無住心剣術 小田切一雲)にも「兵法諸流、先を取るを以て至要と為す。恐らくは不可也。我先を好めば則ち敵もまた先を取らんと欲す。此則ち先々之先也。是の意にして合気之術也。敵もし我の不意を討たば則ち敵は常に先々、我は以て後也。故に負を蒙る。剣術は無益の数ならんか。然らず。ただ先と後とに拘らずして、無我の体、円空の気を備ふれば、すなわち千変万化して勝理常に己に有り。人、恬淡虚無なれば、その気乾坤に充満し、その心古今に通徹す。神霊万像に昭臨して、白日晴天に麗らかなる如し。一物前に現るれば、見聞に随て、意已に生じ、気已に動く。若しこれに執着すれば、則ち神霊忽ち昏晦して浮雲大虚を覆ふが如く、最初の天真之妙心を失却して、散乱麁動の妄意に転倒せむ。これ則ち合気の為す所なり。平日の工夫修養合気を離るるの一法にあるのみ」と教導しており、一刀流と同様、攻防の調子(拍子)が敵と同じになってしまうという意味で「合気」という言葉が使われている。
剣術から発展し、無手捕りの戦術を体系化した柔術・合気道である筈なのに、肝心の「合気」の意味がまるで異なっているのだ。合気系武道では、合気は相手にかけるべきものであり、術の根本となるべきものなのだ。そこで修行者は苦悩しながらも、何とか合気を身にまとおうと努力をする。然しながら剣術では、合気は避けるべき対象として使われているのだ。矛盾した説である。合気には複数の境地が存在するとでも言うのだろうか?
これまで合気の歴史や概要について述べてきたが、ここからは、合気を便宜的に「技法」と「心法」とに分類し、その実態に迫って行きたいと思う。
概ね合気と呼ばれるものには、身体の技法によって不思議な状態を生じさせるものと、仕手側の心の持ち方によって同様の現象を生み出すものがある。多くの合気系武術の道場では、これらの両方を併修させている所が多い。例えば、某合気柔術では、修行者が無心となって「赤子歩き」を行ったり、「九字護身法」で穢れを払った後、禅定によって心身の統一を修業したりもする。また、某合気道では、心を静め、呼吸によって、全身に氣をめぐらす訓練を行うと言う。やはり、技法と心法、そのどちらかが欠けても真の合気にたどり着く事はできないと見える。
余談だが、合気道は「歩く禅」と表現される。禅宗の開祖である栄西や道元の釈にも次のような記述が見られるので紹介しよう。「禅苑清規」には、身心一如との記載があり、また、「正法眼蔵」にも同様に心身一如が説かれている。
故に本来は、合気を技法と心法に分類するなど全く意味のない事なのかも知れない。しかし、いずれにしても合気は心技一体でなければならないものなのだろう。