君子豹変の技術と指導
禅道会が発足した1999年に熊谷は中津川市へ、翌年は瑞浪市、飯田市と、続けて道場を開いている。その後、2004年に浜松市へ渡り支部を開設。2014年には禅道会で最大の生徒数を有する支部長になっていた。力を注ぐ目標を、勝敗重視の試合から指導へと移していったのだろう。教え上手で魅力ある指導者の元には多くの門下生も集まってくるものである。その指導力と熊谷の考え方について興味が沸いた。それがこちらの回答である。
「教えるのってあまり得意じゃないですけど、楽をしないという事は意識していました」
最大支部を作り上げたにも関わらず、教えるのが得意ではないという。そして、楽をしないとはどういうことなのだろうか。
「相手が求めている事をサラッと言えれば、好感度も上がって楽だと思うのですが、その求められている答えに疑問を持つことも多くて」
例え話の多い熊谷の言い分はこうだ。知り合いの女性が髪を切ったとして、それにいち早く気が付き、スマートに「似合うね」と、さりげなく言える男性はモテそうである。しかしどうだろうか。専門家、美容師ならば、こうすればもっと良くなると思うこともあるだろう。あるいは、そもそも骨格的に似合わない選択をしている場合もある。別の髪型をオススメする事だって必要ではないか。敢えて思った事を伝える、楽をしないように気を付けていると言うのである。
「嫌われたりする事もあるかも知れませんが、相手のことを考えた結果なので、別にいいかなと思うのです」
体型や骨格、その人の目的によって必要な技術は変わる。同じ内容の質問に対して、一人目には右と答え、二人目には左と答える事もあったそうだ。一貫性が無いと思われても気にしない。君子豹変である。現在は指導を全て仲間に任せ、熊谷は新しい仕組み作りに取り組んでいる。その中で最も試行錯誤している事が「非日常」だという。
非日常と情報革命
禅道会に入門した初心者が、最初に聞くように勧められるのが小沢代表の講義である。運動力学や大脳生理学を、誰でもわかりやすい形にして起承転結でまとめた内容で、受講者からも好評なのだが、根性論が苦手でサボり気味の熊谷にとっては、理論的で受け入れやすい内容だったのだろう。
「知識を深めたいと思っても、当時はインターネットもない時代ですから、身近でそんな話をする人を知りませんでした」
その講義を聞いてから、熊谷は飲み会によく参加するようになった。
「先生の話を少しでも聞くために、2次会3次会にもついて行きました。飲み屋ですからとても騒がしくて、その雑音の中で耳を澄ませて何とか言葉を聞き取ろうとする事が、私にとっての非日常でした」
熊谷は話の中で、よく「非日常」という言葉を使うが、単に日常から離れる事を指すのではないらしい。散らかった状態(カオス)を、段階的な負荷(ストレス)によって整理していった先でなければ非日常にはならないと、熊谷は定義している。それがとても重要な事であり、かつては道場や飲み会で体験していたと言う。しかし「今は道場や飲み会での非日常体験は難しいでしょうね」と熊谷。
時代の転換点となったのは2000年、インターネット時代の幕開けと共に、情報革命が始まった。必要な情報をいつでも調べられるようになり、便利な世の中になったと感じるが、非日常と情報革命は逆相関だと言う。熊谷の例え話を紐解くと、音楽を聴く目的を、ただの情報収集ととらえるならばMP3の音域だけで事足りる。しかしなぜハイレゾが作られたかといえば、人間の耳には聞こえない音域まで再生したほうが、不思議と良い音に感じる、情緒も変わる事が分かったからだ。ましてレコードは湿度の影響で音まで変わってしまう。管理も大変である。しかし、雑音も入るけれど、人間はそこに風情や情緒を感じるという。そして、何よりもコンサートはチケット取る、新幹線抑える、といった煩雑なストレスがあり、汗だくになりながら雑踏をかき分けた先、パッと開けた景色、さあ始まるというステージ、その体験にこそ非日常があると言うのだ。
「みんな、何が大切かなんて事は、実は分かっています。でも、日常では簡単で便利な方法を選びます。だから音楽はMP3で聞いている人が一番多い。ライブに行く人よりYouTubeで見る人のほうが多い。世界中の凄い人、それこそスティーブジョブズの伝説のスピーチすらみんなが見聞きできる時代ですから、わざわざ飲み会に通い聞き取りにくい雑音の中で耳を澄ませるなんて、今の時代にはやりませんよね」
あえて非効率な事はしなくなる、というのは事実であろう。そして、2007年、iPhoneが登場したことで、スマホの時代になっていった。指導者が練習風景をSNSにアップする。YouTubeで技を研究する。それこそ効率的で門下生の成長を助けるため、決して悪い事では無い。
「道場へ行く前からストレスだったんですよ。駐車場の車を見て、痛い先輩が多いと引き返したり(笑)。そうやって心の葛藤、煩悩があって、でも覚悟を決めて道場に入ったら、もう引き返せない。あるのは『押忍』のみ。だからこそ日常から切り離された空間なのですが、今ならそんな道場に誰も来ません。入っても続きませんね」
昔と違って、今は格闘技の道場も増えてきている。そんな中でスパーリングにおいても入門したばかりの白帯に対して、すぐにKOしてしまうような昔ながらの道場に、もはや人は集まらないだろう。それどころか、クチコミなどでどうとでも広がってしまうリスクもある。自然と、できるだけ楽しく、日常の延長としてストレスの少ない稽古内容に傾いてしまう。手厚いサービス業になっていってしまう。そういう現状も含めて熊谷の言うように、運営を成り立たせつつ、道場や飲み会での非日常体験が難しいという言葉は、一定の説得力を持っているように聞こえた。そして、熊谷は今までの武道の在り方が全て良かったというつもりは無いと話す。
「儒教的な上下関係も、強制的な非日常も、昔はこんな感じで、それはそれで良かったよね、楽しかったよね、という程度の話です。今は今の良さも楽しさもあるはずですから。それをいかに見い出していくかですね」
これからの道場運営を考える
「私たちの時代は、先に生きる者、つまりは先生と呼ばれる人達から学ぶ以外の選択肢がありませんでした。今は多くの人が、色々な情報を持っています。だから、先生と呼ばれていても、なんでも教えられるわけじゃなくて、一緒に学んでいく時代になりました」
情報化社会では、先生に価値があるのではなく、場所に価値を見出していくべきではないか、そんなことを考え始めたのは、2014年。熊谷が禅道会で唯一の師範に昇段した頃の事である。そこで、道場を稽古の場のみではなく、それぞれの目標を持った人達が集まる場所にしようと考えた。極論を言えば、武道でなくとも良いと思ったそうだ。実際に熊谷はジムを多店舗経営しており、その会員数は禅道会の国内総数よりも多い。
「目標を持った人たちが集まれば、そこが道の場だと思っています。ジムの会員さんの中から、空手に興味を持って始めてくれる人もちょくちょくいます。逆に空手から入って、ウチのジムに来た人はガチリフター、ガチビルダーを見てビックリする。そうやって相互的に影響し合える場所があると良いなって」
その頃に学んでいた柔術の影響も大きいという。通っている人たちは和気あいあいと楽しそうに技を習得しようとしている。黒帯が紫帯に「それってどうやっているの?」と気軽に質問しあう環境。強い弱いより、その技をかけてみたい、という姿勢がとても良いと感じた。そこから柔道や剣道、流派問わず空手の大会を見て回った。それぞれの組織の問題点もあるのだろうが、良い部分も多く知ることができたそうだ。